見るということ

年のせいなのか、体調が悪いことがしばしばある。

腰が痛かったり、お腹痛かったり、寝るときに足の裏がかゆくて寝れなかったり、忘れ物が多かったり、夜中に何回もトイレ行ったり、突然めまいがしてふらっとしたり、

後頭部らへんが熱い感じがして
「もしかして脳梗塞ちゃうか」思ったり

人と話してて「あれ今、何しゃべってたんだっけ」
ってなったり。

若い時にはなかった結構な数の異変が体に起きている気がする。

こういう時は、見ること(観照)をすることにしている。

例えば、腰が痛いと感じたときにすぐにその痛みを見る。

すると、不思議なことにその痛みは明らかに減る。

後頭部が熱いと感じたら、その熱い感じを見る。

そして「脳梗塞ちゃうか」と思った自分に気づくと

それが単なる思考だったことがわかり気分が落ち着いてくる。

見ることには実はすごいパワーがある。

何かを見るときには、

必ず主体と客体、見る者と見られる者が発生する。

見る者が自分で、
見られる者が体、感覚、思考、感情など自分以外の全て。

その時には主体である自分と客体である体や感覚に
距離ができるので、痛みや不安に惑わされなくなる。

自分は痛みではないし、不安でもない。

本当の自分は見る者、観照する意識であることがわかる。

見ればわかる。痛みや不安を見ている者が本当の自分だって。

その観照する意識は、生まれてから今までずーっとあった。

体は生まれて成長して大人になって、
その後はやがて衰えて死んでいく。

本当の自分は、そんな体を見ていた者。

もう自分とは言えない何か。

生まれもせず死にもしない。
汚れたり清くもならない。
増えもせず減りもしない。

不生不滅 不垢不浄 不増不減
般若心経の言うとおりですやん!

実際、病気というのが何故あるのかというと、
見ることの練習として与えられたものじゃないかと思う。

試練。試しの練習なんよ、きっと。

やがてやってくる生のクライマックス。

死のその瞬間に死んでゆく自分の体を見ることができたら、
それ以上の成功はない。

なぜなら、本当の自分は死なないことを知るのだから。

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