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Jの衝撃、その後

衝撃のじゅんころギャザから2週間たっての感想です。

福岡でのリアル体験は、いわゆる一瞥体験と呼ばれるものだったと思うのだけど、感覚器官で感じる「体験」である限り、当然ながら消えてなくなります。

もう今は記憶の中です(笑)

 

その後の生活がどう変わったのか?と言われれば特に何も変わりません。

別に金持ちになるわけでもなし、ハッピーがいっぱいやってくるわけでもなし、日々普通に出来事が起こってるなって感じです。

体のほうも、寝違えて首が回らんとか、職場の階段登るのやっぱ疲れるとか、今まで通りで年齢なりです。

 ただ、ここ数年、血圧が高くてよく150超えて頭ボーッとなったりしてたのが、J後は121とか116とか最近なかった値が出たりするので、血圧が落ち着いてるようです。

Jのギャザは、高血圧に効く!(笑)

これは、言えると思うよー(笑笑)

 

表面的に起きることは、こんな感じで血圧以外はこれまで通りだけど、やっぱり何かが違うんだよねー。

うーん、それは何かというと、やっぱ、

Jが言う「これしかないでー!」が完全に納得できたってこと。

ほんとに当たり前に、目の前にある「リアルな世界」しかなかった。

一瞥体験だろうが、日常体験だろうが、体験するものは全部、目の前のリアルとして現れてくる。

どんな思考も、どんな感情も、宇宙自体でさえ目の前のリアルとして現れてくる。

言ってしまえば、「リアル=宇宙自体」なんよ。

これですべて、これ以上はない。どんなリアルも他にはない。

だから、どこに行く必要も、何かを探す必要もない。

目の前にすべてあったのだから。

 

一瞥体験後に、体験をした私が残って苦しむとかよくあるみたいだけど

私が残ろうが、残るまいが、リアルは今もずっとあり続けている。

私ではなくて、これ(リアル)のほうに目を向けよう

今までもそうだったけど、これからもそう 

目の前のこれ(リアル)を生きるだけ。

 

それからね

じゅんころさんって、やっぱとんでもないよ。

ただ話を聞いてるだけで、一瞥を起こさせるなんて

そんな人、他にいる?

そうはいないと思うよ。

Jは、実は・・・

おばさんの仮面をかぶった大魔神なんじゃなかろうか

なーんて、マジで思ったりする 笑(^-^;

ピロエちゃんとのコンビでパワーアップしたのかもね

首絞めても愛してるそうだから(爆)
    ↑
(これもマジすごいと思う)

J&Pは、今やる気とパワーに満ちて、

何か(それ)の波に乗ってる時期だと思う。

ぜひ、会いに行かれることをお勧めします。

じゅんころギャザ

2019年11月16・17日 復活したじゅんころさんの福岡ギャサリングに参加してきた。

会場は博多駅近くの会議室みたいなところでした。

初めて見る「生じゅんころ」は、ビデオのときよりふっくらされてて、やっぱりどこから見ても普通のおばさん?にしか見えない <m(__)m>汗

だが、話している内容は、ビデオでも言っていた「これしかないでー!」

ほんとにぶれないで「これ」以外のことはぶったぎりまくる。

じゅんころはなんでもぶったぎる「ブッタギリアン」なんですな~ってのが最初の感想でした。

しおから見たら、この世界に現れているもの、私、体、思考、etc・・・

結局すべてがストーリーなんだから、それはそれで認めてあげたらいいのでは?

だって、世間一般の人は、私はいる、体はある、思考もある、と思って生きているんだから自分もそう思わないと生きていけないじゃん!

とか思ったりするのだけど、Jさんは私はいないし、体もないし、思考もない、と言う。

つまりは「これしかないでー」ってこと。

会場のほうは、Jさんが鼻くそやらうんちやらおっぱいやら下ネタぶちかましながら進むので、爆笑!爆笑!の連続なんだけど、

しお的には、Jさんは一切の妥協無し、ほんとに厳しい人なんだなと感じた。

一日目の最後は、例のチンメソをならって終了。

もちろん、その夜はチンメソ三昧。これもしお的には・・・

オカリナ吹いた後にばーっと無がやって来たりとか、ストップ瞑想でちょっと無に入ったりとかと感じが似ていて、

まさに、らくちんこな瞑想法!とか思ったりするけど、

Jさんは「絶対違う!」って言うと思うので、詳細は述べないです(笑)

だけど、チンメソすごく気に入りました。

ありがとう、Jさん~!

~~~~~~~~~~~~~~~

2日目は、チンメソの感想とか、質問コーナーとかありつつも、やはりJは、お得意の手をパーンって鳴らして、これしかないでー!

しおも初日に引き続いて、いろんな質問をしていたけど、後半部分になるとちょっと異変が生じてきた。

Jの話を聞いているうちに、だんだんと頭が働かなくなってきて、胸のあたりも変な感じがして、めっちゃ気分が悪くなってきたのです。

しばらくこらえてたけど、これ救急車とかよんでもらったほうがいいかも?くらいになりつつも、Jの姿をただ見ていました。

そしたら、そのうちにJが最初っから言っていた「これしかないでー!」のこれが最初っから目の前にあったのが、リアルにわかってきたのです。

そのリアルはあまりに明白で、疑いようもなくあるので、もう何も質問が出てこなくなってしまった。

いつも目の前にただリアルがあるだけで、もともとリアルしかなかった。

私、体、思考、感情、リアル以外のその他全部は、みんな後付けで最初っからあるのはこれ【リアル】だけやった。

ほんと当たり前のことを、Jはただ言ってるだけやったんやー!

個人とか社会とか世間一般とかそんなもんどこにあるねん!

それあんたが勝手に想像してるだけやろ!

パーン!鳴らしたら、パーン!しかないねん!

パーン!も後付けやねんけどな(笑)

Jは厳しくもなければ、優しくもない。

ほんと、ただシンプルな事実を言ってるだけやった。

ということがはっきりした。

そこで見たリアルは気づきでもなければ、悟りでもなければ、覚醒でもない。

ただ、ただ、リアルだった!!

そのリアルが現れたのは、Jがそこにいたから。

福岡で2日間、ずっと見ていたJの姿は、

これそのものだった。

Love. J & P

じゅんころ復活!

2019年9月、あの「らくちんこ道じゅんころ」さんが「JunCoro」として復活されました~~~ バンザーイ!!

じゅんころさんは、2015年~2017年あたりの非二元ブームのころ、大阪のお話会ビデオがYoutubeにアップされて評判を呼び、

あのスピリチュアルTVでのテディさんとの名作ビデオが多くのスピ系オタクたちに衝撃を与えたのであります。

しおもこのビデオに衝撃を受けて、これの音声ダウンロードをスマホに入れて何百回も聞いたりしておりました。

ところが2017年の3月頃、突然にじゅんころさんは活動を停止してしまい、ついに1度もお会いすることなく、しおのじゅんころ熱も立ち消えになっておりました。

ところがまた突然に、じゅんころがJunCoroとして活動を再開したとの連絡が入り、もうすでに大阪や東京ではギャザリングなるものが行われているもよう。

さらに朗報は、11月16日(土)、17日(日)には、なんと九州・福岡にやってくるとのこと。

うっほほーい!こりゃ行くしかねえべーってことで、しおは申し込みも済ませました。

【11月福岡 申込受付】JUNCOROギャザリング in 福岡

上のリンクから申し込みできます。あなたも参加しましょう(笑)

復活したじゅんころさんと何回かメッセージのやり取りをしたけど、

なんかねぇー、すげぇ気合が入ってる感じがするんだよねー

伝えたいことがあふれてるって感じ。

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【最近のJunCoroのFB投稿】

私たちの本来の姿は、気づきだとか意識だとか、
覚醒すれば現実を創造できるとか、

二元と非二元、色と空の世界があるとか
幻想の私がいる限り苦しむとか、

悟ったら楽になるとか、
今年は集合意識がなんだとか、

そういうジョークにつきあって
必死になにかを追い求めて苦しむのは
終わりにしましょうという話。((´∀`*))ヶラヶラ

そしてこれもまたジョーク笑笑笑

あ、追記、傷ついた心もなければ蓋もないよ。笑笑笑
ほ、ん、ま。((´∀`*))ヶラヶラ
悟ろうとしてする瞑想、坐禅、チンメソも。意味なし(爆)

おやすみ(*´∀`*)

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ね、スゲェ気合入ってね?

前からそうだったけど、ぶった切りまくってる。

じゅんころ節 いよいよ初体験

めっちゃ嬉しいんだけど・・・

めっちゃ怖い気もするんだよねー

これのこと

非二元話の重要語句?に「これ」がありますね。

ジョーイ・ロットの「これのこと」っていう本があったり、

じゅんころさんの名言「これしかないで~!」があったり、

いろんな人が「これ」について語ろうとしてきました。

これは語られ得ないものなので、語ってもこれにはならない

わけですが、しおから出てくるこれを書いてみます。

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これって何かと言うと、「源泉」のことです。

すべての始まり、すべての源のこと。

すべては、「これ」から生じるということです。

「これ」は、言葉や理解が生じる前にあるので、

言葉にすることもできず、理解することもできません。

これを言葉にしたり、理解しようとしたら

これではなくなってしまいます。

 

すべての前にあるものが、これ

言葉の前に、これ

理解の前に、これ

喜怒哀楽の前に、これ

愛と憎しみの前に、これ

色と空の前に、これ

二元と非二元の前に、これ

すべてが現れる前に、これがあるのです。

 

これは始まりであると同時に終わりでもあります。

この宇宙が無から始まって、また無に還るように、

これは、これから始まって、またこれに還ります。

これには、時間がないので、始まりと終わりが消え、

ずーっとこれが存在する、ということになって、

結局、すべてがこれなのです。

すべてがこれなので、じゅんころさんは

「これしかないで~!」というしかないのです ^_^;

 

これを知るためには、タクさんが言うように、

わかろうとせず、言葉なしで、ただある、しかありません。

何もせずに、ただあるということで、これと同化して

すでにこれであるということを知るのです。

この手法が、観照であり、瞑想です。

 

これは「無」という言い方もできます。

「無」とはすべてであるということです。

何かが、形として現れたとき、その形は、

ここからここまで、というふうに制限されます。

無であるときには、制限を受けないので、すべてです。

無であることは、制限なしの自由であることです。

 

これは、無であると同時にすべてであるという、

とても不思議で、面白い性質をもっています。

我々がいるこの世界も、これの性質どおりに、

様々な現象が現れていて、現れていない世界です。

現れるためには、現れていないことが必要なので、

この二つは、これとして同時に存在することになります。

 

般若心経の、 色即是空 空即是色、つまり

形は形なきものであり、形なきものは形である

現象は空であり、空は現象である

粒子は波であり、波は粒子である

二元は非二元であり、非二元は二元である

これらの二極性は、これとして一つになります。

すべては、そのまんま、これです。

 

これは、その根源性ゆえに、神として表現されます。

今ここに常にあるので、存在とも表現されます。

すべてであるので、全体とも表現されます

神も、存在も、全体も、「これ」です。

 

これは、無色透明なスクリーンとして今ここにあり

これ自身の波動を、これ自身のスクリーンに、

ストーリーとして映し出し、自らを表現します。

この時、これはこれ自身に完全に気づいているので

気づき(あるいは意識)としても表現されます。

スクリーンも、ストーリーも、気づきも、「これ」です。

 

とうしようもなく、真実で明らかなのは、

我々も「これ」だということです。

あなたも私もすべてが「これ」です。

誰も、これからは逃れることはできません。

なぜなら、これしかないのだから。

結局、これしかないで~!ってなっちゃうね(笑)

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追記.

自分がこれであるということが明らかになって、

それが本当に腑に落ちると、死はなくなります。

これは永遠に死なないから。

毎日、いろんな出来事が起きるけど、これに任せていると

不思議と落ち着くところに落ち着いていくって感じですね~

「これ」以上どうすることもないからねぇ~

ほーい!ほほーーい!

 

お金と幸せ

お金って何だろう?

1万円札、5千円札、千円札などの紙幣、
500円玉、100円玉、50円玉、10円玉などの硬貨、
あるいは、銀行口座に記録されている数字、

とか、こんなのですけど、これら自体に価値があるわけではなくて、これらとモノやサービスが交換できるよという取り決めによって価値が生まれる仕組みですね。

お金とは取り決め、ルールのこと。ひとつの概念です。

社会、国家、会社、学校、法律、民族、人権、
病気、健康、言語、愛、憎しみ、悟り、・・・etc

これらもすべて概念です。頭の中にはあるけど、実際はない。

例えば、ちょっと外へ出て社会を捕まえてここへ連れてきてくれといって連れてこれるでしょうか?

連れてこれないですよね。

会社とか学校とかは普通にあるやんけー!と言われそうですが、そこにあるのは、土地や建物や働く人間であって、それらの総体に「会社」とか「学校」とかのラベルを貼って頭の中で認識してるわけですよね。

なので、会社とか学校が、実際にあるわけではない。

人間世界は、ほとんどすべての事象に名前をつけて、イメージとして扱ってる概念だらけの世界です。

まぁ、言葉にした時点でもうすでに概念なんですけどねー

二元のこのシャバ世界は、無いものを有るかのように取り扱って毎日大騒ぎしてる世界と言えるかもしれません。

お金は、このシャバ世界で、一番強力な概念と言えるでしょう。誰もがお金を必死で求めてるように見えますから。

しおはずーっと貧乏で、お金持ちになった経験はないわけですけど、もし宝くじが当たって10億円の銀行口座の記録が手に入ったとしたら・・・

うーん、どうしよう? まず、旅行かな?

それから、毎日おいしいもん食べて、おねーちゃんと遊んで(笑)

やりたい放題ですなー(^○^) って感じですかねぇ(笑)(笑)

お金は概念だけど、このシャバ世界では、お金があれば出来ることが増えるって意味で、確かにパワーがあると思います。

お金がないと旅行行けないし、おいしいもん食べれないし、おねーちゃんと遊べないですもんねぇ~、おほほー

私もお金があったらいいなぁ~ってよく思ったりします。

ただ、出来ることが増えたからと言って幸せを感じるかどうかはわからない。

旅行に行ったら幸せなのか?
おいしいもん食べたら幸せなのか?
おねーちゃんと遊んだら幸せなのか?

うーんと、まぁ、幸せと感じるかもですね(笑)

だけど、これらは、ちょっとした五感で感じる感覚遊びみたいなもので、究極の幸せではありません。

それは、海辺でさざ波が一瞬立って消えていったようなもの。

もっと大きな太平洋の大海原みたいな幸せってないのだろうか?

 

しおもわかりかけてきてるんだけど・・・

究極の幸せは、二元の概念世界にはないということ。

それは、お金があろうがなかろうが関係ない。

概念を超えて、感覚も超えてあるもの。

出来事に依らないから、何が起ころうが

関係なく、いつもそこにある、永遠のもの

それそのものが究極の幸せだということ。

お金をいくら集めても、死んだらおしまい。

あの世には1円も持っていくことはできない。

せっかく、この世に現れてるんだったら、

消えてなくなるものよりも、

永遠のものを求めた方がいいよね。

 

で、ほぼ確信をもって言うんだけど。99%くらい。

その永遠の幸せっていうのは夢物語ではなくて

疑いもなく、ほんとうにあるのです。

実際は、永遠の幸せだけがリアルで他は夢物語なんだけど・・・

 

あなたがいるこの世界は、疑いもなく、ありますよね?

世界と一緒に、あなたも、疑いもなく、ありますよね?

 

永遠の幸せっていうのも概念だから、それを外して、

そのあるってことの不思議さをよく見てみると・・・

 

~ 言葉で言うと変になっちゃうんだけど ~

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・                    ・
・      あるはすでにある      ・
・                    ・
・ ずーっと、あった  あるしかなかった ・
・                    ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

そのあるが永遠の幸せで、あなたそのものなのです。

だって、それしかないんだから。

それが、すべてだから。

あなたは、いつもそれだったし、

それから1度も離れたことはなかった!

それは、どうしようもなく真実すぎるんだよね。

うほほーい!Love!

 

悟りはない

24歳の時、OSHOの本に出合ってから、ずっと悟りを追いかけてきました。

ところが最近は、悟りとかないんじゃね?って感じなんですよねー。

もう何十年も追いかけてきたものが実はなかったとしたら?

どーすんのよ。これ~(笑)

大光寺であった菜穂ちゃんのサットサンで三千院門主の堀澤祖門さんに「悟りを得た人かどうかを見分ける方法はありますか?」と聞いたら即答で「ない」といわれました。

悟ってるかどうかの客観的な評価方法はないということですね。

仏教や禅とかの伝統では、悟りを得たと言われる師が弟子に認可を与えるみたいなことが行われているようです。

これは、師から「よし、お前は悟っとる!」と言われたら、晴れてその人は悟ったと名乗れるシステムですね。

その悟りの認可は、あくまで師の主観によるものなので、客観的・科学的な評価ではありません。

入学試験に合格したー!とかと違って、悟りには客観的な評価は無理だということなのでしょう。

なぜ評価できないのか考えてみると、

悟りというものはどこにもないから(笑)

まず、悟りという言葉は、単に言葉なので悟りではないし、

その言葉が指しているものは、あいまいではっきりしない

つまり、単にイメージなので、評価のしようがない

悟りと言われて何をイメージするでしょうか?

微笑んでいるお釈迦様の顔?

ハスの花を携えて瞑想している自分?

超能力を身につけ雲に乗って空を飛んでいる姿?

光に包まれた天国の地で下界を眺めてる自分? とか?

それ妄想ですからねー。そんなんありませんから。

そういう思考が今湧いているというだけのこと。

どこにもないものを追いかけても、見つかるわけないですよね。

私は今まで何十年も、悟りという頭の中のイメージを追いかけていたということに最近やっと気づいたのです。

気づくの遅くね? アホやなぁ~

探究者がすべきことは、逆にそういうイメージを取り除くこと。

気づいて、見抜く。するとイメージは自然に消えていきます。

すべての概念が落ちていって、消えていったあとにあるもの。

言い換えると、解脱のあとに残るもの。

そこにあるのが悟りだった!

っていうオチなんですけどねー

で、その悟りというのは、単にあるがままにあるだけで、

何かになるわけでもなく、ただ本来の面目に還るだけのこと。

ホントは悟りでもなく、目覚めでもなく、解脱でもなく、

名前なしの、言葉なしの 「 ある 」 なんだけど、それは

あれれ、全部が悟っとるやーん!

ガーン!普通の事がとんでもない奇跡だった!

もともと自由しかなかったやんけー!

って発見なのかもしれません。

でもそれ以上は、やっぱもう、しおには言えないですね~

・・・悟ってないから(笑)

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結局、今日言いたかったこと。

ホントはね。

悟りとかそういうもんはありませんからー。

それ、イメージですからー。

ほーい!ほーい!

そのまんま

タクさんのブログでやりとりしてた時に、

「そのまんま」について気づきがあったので書いてみます。

 

禅や瞑想とかで、そのまんま、あるがまんま、とかよく

出てくるけど、これがよくわからないんですよねー。

 

わかろうとすると、そのまんまじゃなくなるから、

わかろうとすればするほど、わからなくなる(笑)

 

それで、今回気づいたのを簡単に言うと、じゃあ、

わかろうとせんで見ればいいじゃん!ってことです。

 

わかろうとするときには、必ず言葉を使うので、

言葉を使わないで見る。なんも言わんで見る。

たったこれだけ (*_*)  だったのです。

 

これまで、般若心経の色即是空は「色はすなわち空である」

ゆえに「色と空は同じものである」とか、わかったような

こと言ってたわけだけど、もう色とか空とか言った時点で

概念だから、そんなややこしいこと言わんで、ただ見れば、

それしかないじゃん!ってことだったの。アホくさー

 

概念をはずして見る。

言い換えると、アホになって見る、ってこと。

 

普通いろいろ考える人がカシコで、なんも考えんのはアホだけど

禅とか瞑想では思考をはずした状態を求めるわけだから、

あれは、努力してアホになろうとしてるわけです(笑)

 

目覚めた人、悟った人っていうのは、無思考の人だから

ある意味アホなんだよね。アホ、バンザーイ!!

遥か昔の話だけど、私にも小学生の時、好きな女の子がいて、

同じクラスの子だったんだけど、何かの授業の時にその子と

机を向い合せて勉強する事になったのです。それで、

目の前にいるその子の顔を見たときに、ぱっと目が合って

二人ともなぜかそのままずーっと見つめ合ったままになって

そのうち回りのヤツらがそれに気づいて、はやし始めたのですが

しばらくボクらはどうもできずに、そのままだったのです。

 

ま、そういう思い出とかあるわけですが、これは多分、

無思考の状態でそのまんま相手を見たからではないか?

と思うのです。

 

その時、彼女の目の中には自分がいた!

彼女と自分は同じだった! みたいな感じ?

 

何も考えず、何も言わず、ただそれを見る。

すると、自分はそれだった! みたいな・・・

 

普段あまり意識しないけど、同じようなことはよくあります。

散歩が趣味で、よく近所をぶらぶら散歩するんだけど、

好きな木の前に行って、ずっとただその木を見たとき、

その木と自分の間には分離がなくなって自分はその木になった!

何かの花の前に行って、この花は何の花?とか言わずに

ただその花を見る。すると気がついたら自分はその花だった!

川の流れをずーっと見ていたら・・・

自分が川の流れそのものだった!

燃える火をじーっと見ていたら・・・

いつの間にか自分は燃えていた!!(爆)

とか、そんな感覚になるときはしょっちゅうあります。

 

思考をはずして見れば、実は私たちは何にでもなれるのです。

山、川、海、大空、飛ぶ鳥、歩く人、、すべてが自分なのです。

 

ん? もしかして、オレ、アホになってる?

 

めげずに言うと、これは一種の恋愛でもあります。

思考をはずせば、全てのものと恋ができるのです。

あれの時に、イクーー!!とかいうけど、その瞬間は

無思考で、何も考えてないですよね。ただ、イクーー!!(笑)

相手と自分の間には分離がなく、一つになった瞬間。無の感覚。

恋愛というのは、実は無の感覚を求めてるだけなのかもしれません。

大リーグのイチロー選手は、バットに恋してるらしいけど、

実は、モノでも人でも動植物でも何にでも恋ができるのです。

 

コツは、何も言わんでただ見るだけ。

すると、相手とあなたは溶け合う。

 

ん? 今度はエロになった?

 

まあねー。

エロもアホも概念なので、気にする必要ないんだけど(笑)

エロもアホもカシコもすべての概念をはずして見たときに、

 

そこにあるそのまんまのそれ

 

あったやーん!

そのまんまやーん!

それしかないやーん!

 

それがすべてだった。

そんな気づきだったのです。

タクさんのブログ

ここ半年くらい、ずっと見てるブログがある。

Life is like children playing house

訳すと、人生はおままごとみたいなもん?って感じ?

フェイスブックページはこちら

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ブログ主様はタクさんという男性?お兄さん?おっさん?で、

会ったことないので、顔も知らないわけだが、すごい人です。

何がすごいかというと、まず毎日ブログ書いてるってこと。

毎回、非二元の話をなぜか関西弁で書いてはるんやけど、

もう600話以上を書いてはって、内容がぜんぶ深いいのです。

初めて日本人が日本語で非二元を解き明かしてるんじゃね?

しかも毎日、毎日、すごいエネルギーだよね。って感じます。

何が彼をそうさせているのだろうか?

それから、もひとつタクさんのすごいところは、

「どこまでも見る人」であるってところです。

しおも観照とかよく言ったりするけど、まだ甘いんだよね。

彼はすべて見抜いてるんじゃね?って思ったりします。

彼の教え?を簡単に言うと、

わからんまま、ただ見とくと、そのまんまが明らかになる

って、一見アホみたいな言い方になるんだけど、実はこれ

見抜きのコツであり、瞑想の本質でもあると思うんだよね。

解釈を加えずに、心を空っぽにして、ただ見ることによって

ただあることが、そのままに現れる。ってことなのよー

彼のブログを半年も見てたら、概念がどんどん落ちていって

ちょっとアホになるかもだけど、ゆる~~~~~~~って

なって、ラクになること請け合いです(笑)

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ホントはタクもすごい人もいないんだけどねー、ほほーい!

私はいない

生まれたばかりの赤ちゃんには「私」はないよね。

彼は今この世に現れ出た、ピュアな命そのもの。

まだ、全体から自らを分けてなくて、ただ漂っているだけ。
全体が私状態、っていうか、全体しかない状態です。

赤ちゃんは息をするけど「私」が息をしているわけではない。

赤ちゃんは体を動かすけど「私」が体を動かしてるわけではない。

そこでは、全体が息をし、全体が体の動きをしているわけです。
息をすること、体の動きが起こっているって感じですね。

その後、名前が与えられ、言葉が教えられ、知識が与えられ、
脳が発達していくにつれて、彼が経験したことの記憶が蓄積され
その記憶への反応が心(マインド)として機能していく。

という流れで、心という体に付随したマインドシステムが出来上がり、それが全体から私を分けて認識してしまうわけです。

非二元では、「私はいない」ということが強調されるけど、
この世にいる人類全員、もともと私はいなかったわけです。

あなたの体の中には、「私」がいると思っていますよね?

でも、実際は体の中には誰も住んでいない。からっぽ。
誰でもない人、純粋なイノチの現れが本来のあなたです。

私とは人間の発達した脳によって作られた実体のない概念である。ということです。

そしてその私は、作られるものなので一つではありません。

恋人の前にいる時の私と、会社の上司の前にいるときの私、

部屋で一人でいるときの私と、大勢の人の前にいるときの私、

休みの日に遊んでいるときの私と、職場で仕事中の私、

場面、場面。瞬間、瞬間に脳によって作られるのが私です。

私たちは毎日、私という仮面をつけて生活していると言えるかもしれません。

だからと言って「私がいる」を否定するつもりもありません。

私を作り上げて生きていくなどどいう芸当ができるのは、
人間だけですし、それが人間の人間たるゆえん。

喜怒哀楽満載の人生ストーリーを味わいながら生きるのも
ほんとに素晴らしい。なかったらつまんないよね。

もしストーリーの私にできることがあるとすれば、やっぱり
私に気づく、私を観照しながら生きるってことですね。

「あっ、今、私は失敗して悔しがってる!」 とか、

「あっ、今、私は昔のいやなこと思い出してる」 とか

「あっ、今、私が痛がってる!怖がってる!」 とか、

私を観て、私に気づいたとき、私は消えていきます。
なぜなら、その私を観ている者が本当の私なのだから・・・

私の人生ストーリーに埋没しながら生きていく中でも、
「私はいない」を知った後では、物事を楽に見れるというか

この概念だらけの世界が、おままごとの遊び場のように見えて
深刻にならなくなります。

深刻になる私がいないのだから、深刻になりようがない(笑)

最近はね。

「私はいない」も「私はいる」もどっちでもいい。

もともと私はいないのだから。

ってな感じかなぁ~、ホーイ。

全元宣言

このあたりで、自分の態度をはっきりさせたい
と思いつつ書いてます。

非二元の探求をやってみて、自分がどう変わったのか?
ってことだけど

まず、何事も気にしなくなった。

お金がない、仕事がない、うわっ失敗した、あれ忘れてた、
これ忘れてた、今日までこれやらなきゃいけなかった、
あの人こんなこと言ってる、とか

いろんなことあるけど、何が起こっても気にはならなくなっちゃいました。

これが、良いことなのか、悪いことなのかっていう判断もしなくなるので、まぁ、起こることが起こってるなぁって感じですね。

お金の面も含めて、このシャバで生きていけてることが不思議なくらいです。

あと、ひとりでいることが楽しい。
っていうのもあるかもしれません。

以前から、ひとりでいるっていうのは、他人に束縛されないってことだから好きだったけど、さらに好きになった。

ひとりでただ座っているときに、ふわ~って喜びの波みたいなのがやってきたりすることがあって、それの回数は増えてるみたいです。

ただ座ってるだけで幸せっていうのも不思議な現象ではあるけど

体の調子は相変わらずで、別に良いってわけでもなく年相応って感じですけど、前はすごくあった死への恐怖は減りました。

死はないって気づきがあったからかもしれません。

おおまかには、こんな感じなんだけど困ってることもあります。

何事も気にしなくなったせいなのか、仕事の面で、今日はこれやって、明日はあれやって、何日までにはこれ仕上げないといけないとかあると思うんだけど、そういうのに対して根性がでないというか、ふんばりがきかなくなった気がします。

シャバ的にいうと、仕事の能力が落ちたってことですかね。

だから、そういう失敗を最近はしばしばやってます。

それに対しても、あまり気にならなくなっちゃってるので、
別にいいのかもしれないけど、やっぱりこれやばくね?
って気持ちが最近強くなってきてます。

そこで、今後の生きる指針というものをはっきりさせよう
と思ったのです。

それは、二元のこのシャバ世界もしっかり生きていこう!
ってことです。

二元 + 非二元 = 全元 → 【全元宣言】いたします。

もともと非二元の現れがこの二元のシャバ世界なんだから
それは同じもの。

ならば、このシャバ世界もすべて味わいつくして生きよう
じゃないか!ってこと。

よく、非二元の探求やってて虚無におちいったって話を聞くけど、当たり前だよね。

無だけ追っかけていったらどこまでも無しかないよ。

無はすべててあるってことだから、あるのほうも見ていかないとですね。

ブッダは「人生は苦である」と言ったそうだけど、

苦? いいじゃんいらっしゃーい!  で答えます。

この現象界に肉体として現れているからには苦は当然のことだし、喜怒哀楽すべてを味わうように存在は我々を送り出しているのです。

それに、存在はその苦を乗り越えるすべも与えています。

それは、「観る」ということです。「観照」とかいいますね。

非二元の探求をやっててだんだんわかってきたことなんだけど、
どんなことが起こっても、それをただ観るということによって、
ただあることの世界へ入っていけるのです。

ただあることの世界とは、非二元、ワンネス、空の世界・・・
えっと、もともとのそれです。ゴメン、言葉では言えん(>_<)

つまり「観照」という手法をつかえば、二元と非二元の行き来が可能ということです。

二元も非二元も、色も空もトータルに生きよう!

OSHOはこのことをゾルバ・ザ・ブッダと言ってました。

ゾルバが二元の色の世界、
つまりこのシャバ世界を代表する者として、

ブッダが非二元、
つまり空の世界を代表する者として表現された言葉です。

非二元ブームもひと段落した感のあるスピ界ですけど、

これからは、二元も非二元も両方で「全元」だよ!

それは「ゾルバ・ザ・ブッダ」だよ!

これしかないでー!

と最近は思うのであります。