「2018」カテゴリーアーカイブ

聖書の言葉

うちの職場の会議では、開始前にチャプレンが聖書の言葉を述べることになってます。

今日チャプレンは、あの有名なイエス・キリストの「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言葉について話されたんだけど、

よーく聞いても意味が分かんなかった(笑)ので、いろいろネットで調べてみたら

一般的には、左頬を出すことによって「相手を許し、愛情を示すこと」と解釈されているみたいです。

また、アメリカのハーバード大学では、以下のようなユニークな解釈の講義をやってたんだそうです。


・普通に右利きの人が正対した相手を殴ると相手の左頬に当たるので、右頬を殴るためには、手の甲で裏拳打ちすることになる。

・昔は、卑しい身分の奴隷を殴る時、きれいな手のひらで殴ると手が汚れると考えられていたので裏拳で殴っていた。

・そこで、右頬を裏拳で打たれた後に、左頬を差し出せば手のひらで打たざるを得なくなる。

・手のひらで奴隷を打つと「主人と奴隷」は「対等の関係」になって、主人にとっては屈辱的なことになってしまう。

・イエスは暴力を用いることなく、主人と奴隷の関係という立場を変えてしまう「平和的な闘い方」の精神を教えていた。

トカナのサイトより


これ面白いけどホントかなぁ~。ひねりすぎじゃ?って感じしない?

しおの解釈は、ちょっと違っていて・・・

バーンって片頬を叩いた後にもう片方を差し出されたら、

「ん、なんだ?」って、一瞬はっとして、時間が止まるよね。

その一瞬に、自分がやったこと(人を殴ったこと、愛のなさ)に気づいてもらうためなんじゃないかな?て解釈しました。

イエスが十字架に架けられるとき「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書)

と言ったように、悟りを得た人が悟後に何をするかというと、もう自分の問題はなくなったので、あとは他者に気づきを与えることしか残らないんだよね。

イエスも仏陀もOSHOもエックハルト・トールも菜穂ちゃんもじゅんころさんも,いわゆる悟っちゃった人がやってることは、あとから来る我々に気づきを与えること。

じゃないかと思うんだよね!

んー、でもねー。黎明によれば・・・

聖書経典に出てくる言葉は、普遍意識に到達した人が言葉にできないものを例え話として語っているのであって、ホントのところは言葉にした時点で普遍意識とは違ったものになっている。

その例え話を、自我マインドを使って解釈してもどうにもならないし、言葉だけを追いかけても、元の真実から離れていくだけだと思うんだよねー

だから、先ほどのしおの解釈も含めて、覚者の言葉を解釈すること自体がナンセンスなのかもしれない。

よく言われるけど、、、

覚者の言葉は「真実を指し示す指」であり、指のほうに気をとられてあれこれやっても真実には辿り着かないってことですね。

こんな解釈劣化は、キリスト教、仏教、イスラム教、その他宗教で起こってきたことで、同じ宗教の中にいくつもの宗派があることがそれを証明している。

一人のブッダが語った事が、いくつもの解釈をされて、いくつもの宗派に分かれる。

そして、分かれた宗派同士で争うパターンってよくありますね。

キリスト教も仏教も、元は一つだったのにね。

じゃあ、どうしたらいいの?ってことになるけど、

・・・うーん、わからん(笑)・・・っていうか、

要は頭で解釈しなければいいんじゃないかな。

その言葉の背景にあるものを直接感じてみる。

言葉の源にある普遍意識のほうに目を向けてみる。

その普遍意識と一体化したときには

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」

と言った時のイエスにあなたはなっている

ってことじゃないかなぁ~

だから、覚者の言葉に触れるときには、

その言葉の意味にこだわるよりも、

その言葉が自分の波動と共鳴するのか?

が重要なんだと思う。

共鳴が起こった時には、黎明で言うところの

普遍意識が降りてきて、言葉の意味が明らかになる。

そんな感じだと思うんだよねー。

物質と意識

井原先生から貸してもらった本を読んでの感想です。

「まじめなとんでもない世界」
著者:奥健夫さん(物理学者)

量子とは物理量の最小単位のことで、1900年にドイツの物理学者プランクが光の量子を発見してから、量子論が始まったんだそうです。

時間と距離にも、これ以上は小さくならないという最小単位があって、

・時間の量子は、10の-44乗秒
・長さの量子は、10の-35乗メートル

それより小さいものは分からない。

いわゆる量子ぼやけの状態になっていて、人間の意識による観察で量子の収縮がおこり、そこに物があらわれる。

人の観察によって、ぼんやりとした可能性から一つが選ばれ、観察者の意識の中に物質として現れる。

ということは、人の意識がなければ、量子はぼやけたままで、物として現れてこない。

量子論的には、そいうこということらしいけど、

しお的(スピリテュアル的?)には、

宇宙があっても、認識する人がいなければ宇宙は存在しない。

「あなたがいてはじめて、宇宙は存在する」
「あなたが宇宙を創造している」

って思っていたので、別に驚きはしないよね。

*

それから面白かったのは非局在性ということ。

非局在とは、どこにでも存在可能ということで、この世界は非局在性や全体性をもつことが量子論でもわかってきたんだそうです。

つまり「宇宙が全体的につながりあっている」ということ。

これも、スピリチュアルの世界では、非二元、ワンネス、分離はないとか普通に言うので別に驚かないよね。

もしかしたら、スピリチュアル的な認識にやっと科学が追い付いてきてるのかな?って思ったりします。

そして、「一つの場所で自由に選んだ情報が遠く離れた別の場所の情報を決定する」ということもわかってきているそうです。

例えば、晴れた日に空を見上げると青空が広がっていて、その青空のずーっと先は宇宙の端なわけだけと、

今この場所と宇宙の端は、どんなに遠く離れていてもつながっている。

どこでも「今ここ」状態。距離は関係ない。

そこで、大空に向かって「腹減った~!」って想いを発すれば、その波動は宇宙の果てまで響いて、どこかでそれに対する反応が現れる。

もう嫁さんが今日の晩飯はカレーライス作る気になってるかも?

これは、仏教などでよく言われるカルマ(業)と同じことだと思った。

この世で悪いことを行えば、いつか悪いことが返ってくるし、
善いことを行えば、いつか善いことが返ってくる。

行なった行為に対して、必ず発生する反作用。
行く波と戻ってくる波。

やっぱ、カルマってあるんだねー、量子論で説かれてるしー。

先日、大分の78歳のボランティアおじさん(尾畠春夫さん)が山口で行方不明になってた男の子を山に入って救い出したっていうニュースがあったけど、

尾畠さんってすごい。波動の強い人なんだろうね!!

男の子を救い出したいって想いの波動が宇宙を巡って現象化したんだと思うよ。

善いことを行なって、カルマも浄化しまくりだしね。

久しぶりにマスコミからいい波動のニュースが流れたって感じです。

*

話を戻して、要するにこの本での宇宙観は

意識のような存在が、宇宙全体にいきわたっていて

3次元空間の「今」は、ぼんやりとしていて、
今のこの瞬間に、意識によって可能性が実現化していく。

という感じです。

つまり、意識によって物質が現れるということ。

極論すれば、すべてが意識だからね。

般若心経の色即是空の「空」は「意識」のこと。

意識が形として現れたものが物質なのだから。

そして、あくまで意識が先で、物質は後。

見えないものが本質で、見えるものは一時的な現象。

生まれる前は、みんな見えないものだったんだからね。

量子論とスピリチュアルな世界観ってすごく似ている。

そう思った!

黎明!黎明!

ヌーソロジーの福岡研究会に参加したときに、参加者の斉藤さんがすごい本がある って紹介されていたので、早速図書館で借りてきた。

黎明(上巻、下巻) 著者:葦原瑞穂 amazon

初版は1998年12月で、2001年に上下巻に分かれ、2017年に新版として出版されてい るようです。

構想に2年、執筆に11年4ヶ月かけたということで、

物質、意識、人間、創造の 原理、誕生と死、生れ変り、潜在意識、カルマ、アストラル界、メンタル界、チャネリング、善と悪、光と影、占星学、宗教、アセンション、etc・・・

スピリチュアルな世界に興味がある人なら誰もが知りたい事を広範に、 真正面から科学的な視点で解説されています。

著者の葦原瑞穂さんっていったい何者?って思ってしまいますが、残念ながら2016 年10月2日に交通事故の為、現象界から旅立たれたそうです。

書かれている世界観は、私の師匠である井原先生がいつも言われていることほぼ同 じで、物質と意識のとらえ方はヌーソロジーと同じように感じます。

この本に出会うためにこれまで探求してきたんじゃないか?と思うくらい、これか らの探求の手引書としてぴったりです!

葦原さんは、大いなるもの(神、存在、全体、これ)を表す言葉として「普遍意識」という言葉を使われています。

生きる目的とは、普遍意識と一体化すること

そして、その波動を宇宙に還元して全体を進化させること

その方法について、様々な角度から詳細に解説されているので、こりゃやるっきゃないでしょ!

ただ、ここに書かれていることはあくまで葦原さんから見た世界なので、鵜呑みにせず自分の体験として探求していかないとね。

OSHO~瞑想~井原先生~非二元~般若心経~ヌーソロジー~

まぁ、気が付いてみればいろいろやってますが(笑)

これからしばらくは、黎明!黎明!ってなりそうです。

ワクワク。

プラシーボ効果

引き続き、体の調子が悪い。

いや、体と心は1つのものだから、
心の調子が悪いのかもしれない。

今朝も目覚めたときから

「うわぁ、どうも何か具合が悪い」
「後頭部らへん、熱くなってないか?」
「左足がしびれてないかなぁ、そんな気がする」
「ドーン、と脳梗塞やってくるんじゃ?」

とか考えたり、

「いやぁ、死なんてないからねぇ」
「もう生き死には全部、神様に任せてるよ」
「今、起きてること全部受け入れればいいのよ」
「この瞬間はこうでしかありえないからねぇ」

などど、

否定的な思考が浮かんでは、
それを打ち消す肯定的な思考を浮かべる。

そんな作業を、あきれるくらい延々とやり続けてる。

これ、葛藤ってやつですかね?

マインドは葛藤を生み出して、その葛藤が体に影響を与える。

それで、今の体調の悪さがやってきてると思う。

 

7年前にも、今と同様に体調が悪い時期があった。

その時は井原先生と出会い、先生の手当で治してもらった。

もう7年も先生のところで修行しているので、

今回は、自分で治してみようと思う。

井原先生

 

ところで、プラシーボ効果っていうのがありますね。

プラシーボ効果とは、偽薬を処方しても、
薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられること。

これは、実は良いことなんじゃね?って思ったりします。

偽薬で病気が治るということは、薬じゃなくて

実は、自分が病気を治しているということですよね。

信じる者は救われるという言葉があるように

この薬で本当に治ると信じれば、本当に治る。

これは、よくスピで言われる「思えばそうなる」とか

「世界は自分が創造している」の証明ではないでしょうか。

だから、プラシーボ効果って肯定的な好ましい現象だと思う。

 

井原先生の手当で心臓が治ったっていうのも、

かなり、プラシーボ効果的なところがあったのでは?

と、今は思ってます。

 

井原先生はすごい人だ!と思えば思うほど

先生の言われることを素直に聞けば聞くほど

治ると信じれば信じるほど、効果は高くなる。

 

それでオッケー! 何も悪いことはないよね

信じて乗っかれば、病気が治っちゃうんだから。

 

井原先生に限らず、気功やヨガや宗教の教師たちが、

病気を治したという話は、よく聞いたりするけど

その教師たちは、あくまできっかけであって、

結局、自分の思いが、自分の体を治している。

 

信じる、思う、想像する・・・すべてマインド

 

この世界は、ほんとにマインドの世界なんだな。

マインドによって一日中、何らかの判断をして、

良ければ浮かれ、悪ければ落ち込み、体調が変わる。

カラダというのも、マインドが物質化したものだからね。

 

プラシーボ効果っていうのは、

マインドの世界で現れる面白い現象だと思うけど

マインドである限り、究極ではないよね。

 

やっぱり、二極を往ったり来たりする

ぐるぐる輪廻からは出られない。

 

えっと今、気づいたけど

そういう、マインドストーリーから、

ちょっと抜け出てみることを、最近忘れてた!

だから、体調悪かったんだね。

死後の今

なぜか最近、体の調子が悪い。

昨日は仕事中に頭がポーっとなって保健室で寝ていた。

血圧測ってもらったら、170になっていた。

なぜだろう?

嫁とケンカしたから?

西城ヒデキが死んだから?

霊的な何かがとりついてる?

わからない。

でもやることは決まっている。

体の調子が悪い自分を見ること。

心臓の鼓動、血流の流れ、手足の感覚、

入る息、出る息。ちゃんと見れる。

このまま、逝ってもいいかな?って思ったりする。

見ている者が本当の自分なんだから、

体が死んでも何も変わらない気がする。

 

井原先生がいつも言うんだけど・・・

「死んだあと何処に行くかが勝負なんやー!」って。

 

先生みたいに死んだ先のことはわからないけど、

言えるのは、死んだ後も「今」があるだけってこと。

死んだ後なんてないからね。

死んだ後も今になってるわけだから。

 

ちょっと、死んだ後のことを今、考えてみる。

死ぬと間違いなく、肉体はなくなるわけだけど

肉体の死後、我々の個性はどうなるのだろう?

消えてしまうのだろうか?

それとも、残るのだろうか?

答えは死んでみないとわからないけど

人は7つの波動体の集合であるという観点からは、

肉体は死んでも個性は残るってことになるね。

アストラル体レベル以上のあなたの個性は、

ユニークな波動として振動し続ける。

だから、あなたは死にたくても死ねない(笑)

そのことは、最近はほぼ間違いない気がしてる。

その個性も全体の表現だから、

結局は全体しかないわけだけどね。

 

半田広宣さんが、

「寝てる時に見る夢とは何ですか?」って質問に

「死の予習のようなもの」と言ってたんだけど

確かにそうかもしれない。

夢の中では、肉体の感覚はほぼなくて、

自由にいろんなところに行けるからね。

子供のころ、よく平泳ぎみたいな恰好で

空を飛ぶ夢を見たけど、楽しかったなぁ~

もしかしたら、夢見中にはアストラルが

体から離れて全宇宙を旅しているのかも。

死んだ後も、そんな感じじゃないかなぁ~

今度また体の調子が悪くなったら、

そのあたりもっと探究したいと思う。

 

地球は回る

キリスト教系の学校に勤め始めて1年になります。

毎日、1時間目と2時間目の間に礼拝の時間があって、聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりするんだけど、これが結構楽しかったりする。

聖書で何を語っているか?とかほとんど興味ないんだけど、

誰にも邪魔されない瞑想の時間としてちょうどいいからね。

会議やイベント時にも、開始前にチャプレンがやってきてお言葉を述べてアーメンってやってから始めるので、ケンカにはならないんだよね(笑)

アーメンとは、同意するって意味なんだそうです。

そんなうちの学校の一番いいところは、キリスト教に入信してクリスチャンになりなさいとかまったく言わないこと。

礼拝も強制ではないし、入信も自由なんだよねー。

おかげで、スピ系オタクとしては特定の宗教に偏らずに探求できるので良い感じです。

うちの礼拝でチャプレンが必ず言う言葉が

「それでは皆さん、今日も神様からの祝福を受けましょう!」

そのあと、オルガンが鳴ってアーメンを3回唱えるので、これは、祝福を受けることに同意してることになります。

まず最初に祝福ありきなんよね。ここが仏教と違うところ。

仏教は「人生は苦である」から始まりますからねー

基本の話だけど・・・

我々は皆、この3次元世界にいて、

それぞれが日々の暮らしをしているわけだけど

毎日、必ず朝が来て太陽が昇り、外に出かけて活動し、
夕方には太陽は沈みだし、暗くなれば眠くなって寝る。

人生ってたったこれだけなんだよね。
これを3万回ほどくり返すだけ(笑)

だけど、この事実をよく見てみると、とんでもないことに
朝が来たり夜になったりするのは、地球が回っているから。

地球の重さは、約6000000000兆トンだそうだけど
そのとんでもなく重いものが、24時間ちょうどで、
1秒の狂いもなく1日に1回転する。

だから、朝が来て夜が来る。

今までどれだけ回数、地球は回ってきたんだろう?
これからどれだけ回数、回るつもりなんだろう?

地球にいる我々も、地球と一緒に回っているわけで、
その意味では、我々も地球と同体、地球が私、私が地球。

もし地球が回らなかったら、朝もない夜もない人生もない。

毎日毎日、休まずにその地球を回してるのは誰だろう?

うーん、神様というしかないよね。
ほかに答えがあったら誰か教えてー。

我々は常に神という大いなる力の中にいるということ。
すでに最初から神の祝福の中にいるということ。

キリスト教徒だろうが、仏教徒だろうが、

非二元だろうが、ヌーソロジーだろうが

アホだろうが、カシコだろうが関係なしに

地球は回り続け、朝は来て日はまた昇る。

はっきり言っちゃえば、人生なんてないから(笑)

人生とは単なる記憶、
過去の記憶が今、湧いているだけ。

我々が人生だと思っているものは、
地球を覆う雲みたいなもの。

どんなに深刻ぶっても、湧いては消えていく。

だけど、今、地球が回っているのはリアルな現実。
これはホントのお話だから。

ホントの話のほうに目を向けよう!

あなたが、死のうが生きようが、地球は回る。

神の祝福は、いつもリアルな現実の中にある。

なぜなら、生のリアルな現実こそが神だから。

・・・それが、本当のあなたなのだから。

よく見ると、全部がリアル! 全部が祝福!

Love.

思考は2つある

ヌーソロジーを始めてから、すごく思考を使うようになった。

ちょうど仕事上の必要で、ある試験を今月受けないといけないということも重なって、久しぶりに勉強してます(笑)

もう年なので、頭がすぐ疲れるとか、なかなか覚えられないとか、すぐ忘れるとかあるけど、今の気分は悪くないです。

瞑想や非二元では、思考を外してあるがままを見るということをやっていたので、あえて思考を使わないようにしていました。

それはすごく良かったし、存在とつながってる感じ、無の感覚っていうのにも触れられた気がします。

なによりも、以前よりめっちゃ楽になった感じでした。

でもなんか足りない気がしてたんだけど、それは何かと考えると「明晰さ」じゃないかなぁって思いました。

半田広宣さんとか川瀬統心さんと比べると明らかだなぁ~(笑)

今までは、知らず知らずのうちに

思考は悪で無思考が善である。
カシコを目指すのはやめて、アホになろう!

みたいな感じだったと思います。だけど、
これもまた思考にこだわってるってこと。

思考は別に悪くない、思考自体は中立で、

存在から人間に与えられたすばらしい贈り物。

思考をどう使うのかが問題なんだと思う。

ところで、思考には2種類あると思います。
上に向かう思考と下に向かう思考。

7つの身体で言うと、ちょうど真ん中の4番目がメンタル体で思考を扱う波動体です。

それより上位には、スピリテュアル体、コスモス体、ニルバーナ体の波動レベルがあり、

それより下位には、アストラル体、エーテル体、そして肉体となります。

学術・研究や真理の探究に思考をめぐらせる時には、その思考はメンタル体から上位の体とつながって展開される。

上位の体とつながって思考するときは、もう自分が考えてるんじゃなくて、もっと大きなところから何かが話しかけてくるって感じだと思います。

まさに、半田広宣さんのところにやってきたオコツト情報っていうのはこれではないかと思います。

般若心経の「般若の知恵」もこれだよね!

他方、世間的な出来事、人間関係の悩みやお金の心配などについて考えているときには、メンタル体から下位の体と結びついて展開される。

その時には、精神的な不調や、痛み(ペインボディ)をもたらし病気として肉体に現れることもある。

先月、ネズミ捕りにつかまって調子悪い日になっちゃったしおもこんな感じじゃないかな?

なので、思考を使うときには十分な気づきが必要です。

さて、自分の体を使ってこの2つの思考の探究を続けます。

神と人の関係

前回の投稿から、神について考えてるんですけど、

神とは「大いなるもの」である。って言えますよね?

いつも不思議に思うんだけど、

今年の冬はめっちゃ寒くて、もう春は
やってこないんじゃね?とか思ったりするけど、
やっぱり春はちゃんと来て桜は咲き始めるんだよねー

今日も仕事が終わる頃には、日が暮れて夜になるけど
太陽は明日も決まった時間に決まった場所から登ります。

地球が回るのだって、太陽が燃えるのだって、
とんでもない計画性と力が必要だってわかるけど、
それは完璧に、正確に、当たり前のように行われてる。

宇宙のこと、コスモス(Cosmos)とか言うけど、
天体の動きや季節の移り変わりを見てると

宇宙は大いなる力によって、寸分の狂いもなく
秩序正しく動かされているなぁ~って感じます。

そんな大いなる力を感じていた先人たちは、
それを神と呼び、讃え、畏れ、崇拝してきた。

で、ここで気づくのは、これって、もしかして、
人間が神を創ってるんじゃね?ってことです。

大いなるものに対して、人間が「神」という
名前とイメージと存在感を造り付けてますよね。

 

エックハルト・トールの言葉に

「神は、あなたを通して自分自身を知る」

というのがあります。好きな言葉です。

あなたがいなければ、神は自分を知ることができない。

人間は大いなるもの(神)により創造され、
その神を創造できるのも人間(あなた)である。

神がいなければ人間はいないし、
人間がいなければ神もいない、ってこと。

神が人間を創ったのか?
人間が神を創ったのか?

この問いは、どちらも真実です。

神と人間は、言ってみれば相互依存関係なのです。

 

神と人について、よく言われる例えで、

大いなるもの(神)が海で、あなた(人間)が波である。

というのを聞いたことあるかもしれません。

波は常に形を変え、生まれては消えるを繰り返しますが

本体の海はまったく変わらない。海は海のままあり続ける。

海と波に境目はなく、波は海であり、海は波である。

つまり、波は海の一部であると同時に海そのものである。

これと同様に・・・

あなたは神の一部であると同時に神そのものである。

すべてのものに神が宿るのだから当然そうなりますね。

なので、自分は神である!という言明は正解です。

もう動かし難い、単純な事実なんだよねー

 

最終的に、じゃあ、

その大いなるものとは何か?と問われても、

それは、人間の知性を超えているものだから

「神秘です」くらいしか言えないわけだけど(笑)

やれることがあるとすれば、ホント単純に、

創造された神というイメージを外して、シンプルに

今ここにある「大いなるもの」を直接感じてみる。

たったそれだけなんですけどねー。すると、

その大いなるものと自分には全く区別がなくて、

なんだかわからない透明な幸福感があるんだよね。

もしかしたら、神の正体ってのは

その透明な幸福感だったりするのかもね~

って思ったりするのです。

 

梵我一如

最近、ブログを見た人から時々質問が来るんだけど、

「宇宙を創ったのは誰ですか?」っていうのが来ました。

そんなのしおにはわからないわけだけど(笑)、面白そうなので考えてみました。

もう何回も、このブログで宇宙の始まりは無が揺らいで波になってできたんですよーって言ってますけど、

その波を起こしたのは誰か?  というのは

とりあえず、神様というしかないと思うけど、

神については、二通りの見方があると思います。

一つは、神様という自然界から離れた誰かがいて、その方が人間や自然界その他すべてを創造したというもので、

もう一つは、この自然界そのものが神の現れであり、神は現れたすべての中に内在しているというものです。

前者が一神教で、後者が多神教の見方と言えるかもしれません。

どちらが正しいか?については何も言えませんが、私は後者の方を支持します。

すべてのものに神が宿る!

ってことは、あなたも私も神の現れ!

単純に、こっちのほうがいいよねー。バンザーイ!

古代インドの思想に「梵我一如(ぼんがいちにょ)」というのがあります。

梵(ブラフマン)・・・全体の神のこと
我(アートマン)・・・自分の中の神(真我)のこと

梵と我は一如(同じもの)であるという見方です。

私は、体験的にこれは真実だと思ってます。

瞑想などで深く自分の中に入っていき、そこにあった本当の自分(アートマン)を見つけたとき、それは外側にいた全体の神(ブラフマン)と同じだった!

自分は全体であり、全体は自分であった! という発見。

これって自分は神である!って言ってるんだよね。

普通、自分は神である!とかいうと、
アホちゃう?とか、思い上がってね?とかなるけど、

ここでいう自分とは、もう自分じゃなくて、
自分がいなくなった時の自分です。

そこにあるのは、純粋なイノチの現れ。

そのまんま神です。

 

ん、あーーーーん!!☆

 

ここまで書いてきて気づきが来たけどー!

今来た気づきは、「宇宙は二つある!」ってこと。

一つは、神によって137億年前に無が揺らいで創造された宇宙。これは我々の外側に広がる宇宙(外宇宙)

もう一つは、外側の宇宙を我々の意識が感じて内側に創り出す宇宙(内宇宙)

外側の宇宙と内側の宇宙があるって言ってきたよー。

これは、梵宇宙と我宇宙とも言えますね。

梵宇宙は神が創り、我宇宙は自分が創っている。

梵我一如。梵宇宙と我宇宙は本来一つのもの。

梵宇宙と我宇宙の統合こそが悟りへの道ってキタよー!

これ、新しい探求テーマになりそう。うほほーい!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

えっと、話を元に戻して・・・

(外側の)宇宙を創ったのは誰か?

と問われれば、答えは神ということになるけど、

その神は、自然界から離れた誰かではなく、

全ての中に内在する神意識の波動として、

息をするようにその波動を循環させている。

宇宙の始まり、創造の波、それ自体が神であり、

その波動の中にすでにあなたは含まれていた。

なぜなら、あなたは神の現れなのだから。

そして、あなたは(内側の)宇宙の創造者として

今ここにあり、あなたが創造した我宇宙の波動を

梵宇宙に還元し、宇宙全体の創造に参加している。

究極を言えば・・・

すべては「梵我一如」に帰する。

梵宇宙と我宇宙は同じものだと知った時、

その時には神も消え、あなたも消え、創造だけが残る。

その創造自体が答えなのでは?と思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すっごくわかりにくいと思うけど、

結局、宇宙の創造者は、自分なんだよねー

それをはっきりと知ることが悟りなのかもねー

おっほーい!

気づくということ

最近思うんですけど、
自分に気づけるってすごいなぁ~って。

今日も、自転車で通勤してるとき、職場についたらこれやって、あれやって、って考えてたんだけど、

ふと、考えてる自分に気づいて、ふぁ~って無になるのです。

一日に何回かそういう瞬間があって、その瞬間、意識が個人から全体へシフトしてるんだよね。

その時は「考えてる自分を見ている者」になってるのです。

その見ている者は、無色透明な見えないからっぽの意識で、

いつも自分のそばに立って自分を見て、気づいている。

それ自体が喜びで祝福なんです。・・・そんな感じ

最近「見ている意識」というのが本当の自分である、っていうことにだんだん確信を持てるようになってきてるみたい。

一休和尚が言っていた「本来の面目」ってこれだよね。

本来の面目坊が立ち姿

一目見しより恋とこそなれ (一休)

本来の面目=見ている意識(本当の自分)

で、朗報なのが・・・

苦しい時に、苦しんでる自分を見ている者になれる。ってこと。

例えば、マラソンとかで長距離を走ると当然苦しいけど、その時も苦しんでる自分に気づけるんですよね。

すると、自分は苦しんでるのを見ている者であって、体でもなく苦しみでもないってことが認識されます。

苦しみと自分の間に距離ができるので、苦しさは減ります。

同様に、

自分が悲惨な状況にあっても、その悲惨な自分に気づける。

この場合も、悲惨な自分を見ている者が本当の自分であり、本当の自分は悲惨な自分ではないと認識できるのです。

さらに、その悲惨な自分をよく見てみれば、悲惨も自分もイメージであって、実体がないことがわかります。

悲惨な自分と言った瞬間に、想像上の悲惨イメージが作られ、自分と同一化され、思い込みの自分が出来上がります。

悲惨な自分なんていなかったのです。そう思い込んでただけ。

思い込みと同一化している時だけ、苦しみや悲惨さがある。

般若心経では、そのことを言ってるんだよね。

般若の知恵(見ている意識)で世界を見てみると

苦しみも恐怖も思い込みで実体はないことに気づく。

能除一切苦 無有恐怖 転倒夢想

実際のところ、この世は思い込みでできた夢の世界です。

人間の数だけ思い込みの世界が創造され、

それを本当にある現実の世界だと信じ込んで、

苦しんだり深刻になったりしている。

でも、本当の自分はすでにそれが夢だと知っています。

なぜなら、本当の自分は、気づきそれ自体だから。

思い込みの世界=思考の世界にハマってる自分に気づく。

それが見抜かれたら、めちゃくちゃラクになりますねー

もう落ち込んだりすることは、ほぼ無くなるでしょう。

あとは夢の世界に遊ぶだけだから。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

だからねー。

自分に気づけるってすごいことなんだよねー

ほーい!ほーい!