本当の自分とはなんだろう?
アホみたいにも思えるが、ま、ヒマなので考えてみた。
例えば、「昨日、私は山登りをした」と言ったときの私は私ではない。
なぜなら、私と言った瞬間にその私は対象物になってしまって
もう自分自身ではないからです。
主体と客体、見る側と見られる側でいうと私は「見る主体」なんだけど、それを私と呼んだ瞬間に見られる客体になってしまう。
「昨日、私は山登りをした」という表現は、「山登りをした私」を客体として、客観的に眺めて言っているのです。
だから、その私は私ではない。
私(自分)は常に見る側で、私(自分)以外のものは
常に見られる側です。
山、川、道路、自動車、机、パソコンなど
自分以外のものには何でも名前を付けて呼べるけど、
自分自身については呼ぶ主体だから呼びようがない。
呼んだ瞬間に客体になってしまう。
自分の体、心、頭、目、耳、鼻、口、、、
これらも名前を付けて呼べるので自分自身ではない。
多分、自分の体や心のことを自分だと思っている場合が多いと思うけど、これらは客体なので自分自身ではない。
本当の自分とは、自分の体や心を見ている者、「認識する主体」のことです。
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では、本当の自分である「認識する主体」とはなんだろう?
ここまできて言うのもなんだけど、
実は自分というものはないのです(笑)
自分という字は「自らを分ける」と書くけど、もともとひとつである全体から勝手に自分というものを分離してあると思っているだけの話です。
無我(我はない)というのが本来の姿。
般若心経や非二元ではそのようにとらえます
なので、それはもう自分とは呼べないもの。
個人から全体へとシフトしたもの。
本来、名前は付けられないんだけど、
よく意識とか気づきとか存在とか呼ばれるものです。
それはあらゆるところにあるのだけれど、
形としては存在せず眼には見えないので、
ここにあるとか、あそこにあるとか言えない。
だけど、確かにある。
それがあるから世界は認識可能で存在できている。
それは、無と言ってもいいかもしれません。無だけどあるもの。
色即是空 ~形あるものはすべて無から生じてくる~
100年前にはあなたはいなかったし、100年後にもあなたはいない。
つまり、100年前にはあなたは無だったし必ずまた無に還る。
あなたとは、無から立ち現われた一時的な現象に過ぎない。
だけど、本当のあなたであるそれはずっとあり続ける
それは、あることそれ自体、命そのものだから。
本当の自分を知るためにやることは、たったひとつ。
ジタバタせずに、それに明け渡すだけ。
ノープロブレム。心配いらないよね。
もともといたところに還るだけだから。
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うーん、いろいろとハズしてると思うけど・・・
今日はそんな気がした。