無に憧れて

前回の投稿で「あの世とは無である」と書いたけど、その続きを書きます。

無とは何かというと、通常は何もない空間を指しています。

例えば、身の回りにある、何もない透明な空間。

そこは無と呼ばれる空間だけど、まったく何もないということではない。

身の回りの無の空間は、窒素や酸素や二酸化炭素などの目に見えない物質で満たされている。

では、そういった目に見えない物質をすべて取り除いた空っぽの空間(真空)が無なのだろうか?

いやいや、どうもそうではないみたいです。

量子論によれば、真空の中ではごく短い時間に素粒子が現れては消えるという生滅運動を超高速に繰り返しているそうです。

真空中の様相は、常に素粒子たちが揺らぎながら沸き立っていて、その運動の中から物質が現れるとのこと。

なので、「無は万物を生み出す素」であるとか、「無は有である」とか言われるわけです。

だが、これは完全な無とは言えないと思う。

完全な無とは空間さえもなく、ゆえに時間もなく、ゆえにこの3次元空間を超えた高次元の無のこと。

だから、無には「3次元空間中の無」と「高次元の完全なる無」の2種類ある。

 さて、私は「あの世とは無である」と主張したわけだけど、

「死んだ後にあの世に還る」のあの世について最近直感的に感じるのは、

肉体が死んだあと「高次元の完全なる無」に還れる人はほとんどいないのでは?ということです。

誰かが死ぬとその人の「目に見える波動である肉体」は活動を停止し「3次元空間中の無」に還ります。

が、より微細な波動の微細身(アストラル体、メンタル体など:7つの身体参照)は肉体を離れて3次元空間中に残るのです。

仏教などで、死後49日間は魂はこの世に残るといいますがその通りだと思う。

死後の我々の微細な波動体は地上の近くを漂っていて、徐々に地上を離れて完全なる無に還ろうとする。

その時の我々の意識は、肉体を持たないので距離や時間の制限がなく、夢見のごとく思いが浮かんでは消えるを繰り返す。

そこは、量子論で言う「我々は世界の創造主である」の通りに思ったことが即実現する世界なので、

天国や地獄があると思ってる人は、天国や地獄を生きることになり、

善人と悪人がいると思ってる人は、善と悪の二極の世界をこの世と変わらずに生きることになる。

肉体を離れた後も、この二極の3次元世界に未練があったり、波長が合う何かがある場合は地上を離れられず、ここで輪廻転生を繰り返す。

だから、ほとんどの意識体は本当の「完全なる無」には還れず、地上(この世)の周辺で何世も同じことをやるのだと思う。

では、地上(この世)から離れて、高次元にある「完全なる無」に到達する人とはどんな人だろう?

言葉で言えば、覚醒した人ということになるだろうけど・・・

もう人とは呼べない、個人ではない、覚醒した意識

完全なる無と一体化した普遍なる意識

 

~~~~~般若心経~~~~~

ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝
(往き往きて、彼岸に往き、)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝
(完全に彼岸に到達した者こそ、)
ぼうじ
菩提
(悟りそのものである。)
そわか
僧莎訶
(めでたし。)
~~~~~~~~~~~~~~~

ここでいう彼岸が完全なる無であり、悟りそのものである。

完全なる無こそが、涅槃(ニルバーナ)なのだと思う。

やっぱり、憧れてしまうんだよねー

 

 

 

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