このあたりで、自分の態度をはっきりさせたい
と思いつつ書いてます。
非二元の探求をやってみて、自分がどう変わったのか?
ってことだけど
まず、何事も気にしなくなった。
お金がない、仕事がない、うわっ失敗した、あれ忘れてた、
これ忘れてた、今日までこれやらなきゃいけなかった、
あの人こんなこと言ってる、とか
いろんなことあるけど、何が起こっても気にはならなくなっちゃいました。
これが、良いことなのか、悪いことなのかっていう判断もしなくなるので、まぁ、起こることが起こってるなぁって感じですね。
お金の面も含めて、このシャバで生きていけてることが不思議なくらいです。
あと、ひとりでいることが楽しい。
っていうのもあるかもしれません。
以前から、ひとりでいるっていうのは、他人に束縛されないってことだから好きだったけど、さらに好きになった。
ひとりでただ座っているときに、ふわ~って喜びの波みたいなのがやってきたりすることがあって、それの回数は増えてるみたいです。
ただ座ってるだけで幸せっていうのも不思議な現象ではあるけど
体の調子は相変わらずで、別に良いってわけでもなく年相応って感じですけど、前はすごくあった死への恐怖は減りました。
死はないって気づきがあったからかもしれません。
おおまかには、こんな感じなんだけど困ってることもあります。
何事も気にしなくなったせいなのか、仕事の面で、今日はこれやって、明日はあれやって、何日までにはこれ仕上げないといけないとかあると思うんだけど、そういうのに対して根性がでないというか、ふんばりがきかなくなった気がします。
シャバ的にいうと、仕事の能力が落ちたってことですかね。
だから、そういう失敗を最近はしばしばやってます。
それに対しても、あまり気にならなくなっちゃってるので、
別にいいのかもしれないけど、やっぱりこれやばくね?
って気持ちが最近強くなってきてます。
そこで、今後の生きる指針というものをはっきりさせよう
と思ったのです。
それは、二元のこのシャバ世界もしっかり生きていこう!
ってことです。
二元 + 非二元 = 全元 → 【全元宣言】いたします。
もともと非二元の現れがこの二元のシャバ世界なんだから
それは同じもの。
ならば、このシャバ世界もすべて味わいつくして生きよう
じゃないか!ってこと。
よく、非二元の探求やってて虚無におちいったって話を聞くけど、当たり前だよね。
無だけ追っかけていったらどこまでも無しかないよ。
無はすべててあるってことだから、あるのほうも見ていかないとですね。
ブッダは「人生は苦である」と言ったそうだけど、
苦? いいじゃんいらっしゃーい! で答えます。
この現象界に肉体として現れているからには苦は当然のことだし、喜怒哀楽すべてを味わうように存在は我々を送り出しているのです。
それに、存在はその苦を乗り越えるすべも与えています。
それは、「観る」ということです。「観照」とかいいますね。
非二元の探求をやっててだんだんわかってきたことなんだけど、
どんなことが起こっても、それをただ観るということによって、
ただあることの世界へ入っていけるのです。
ただあることの世界とは、非二元、ワンネス、空の世界・・・
えっと、もともとのそれです。ゴメン、言葉では言えん(>_<)
つまり「観照」という手法をつかえば、二元と非二元の行き来が可能ということです。
二元も非二元も、色も空もトータルに生きよう!
OSHOはこのことをゾルバ・ザ・ブッダと言ってました。
ゾルバが二元の色の世界、
つまりこのシャバ世界を代表する者として、
ブッダが非二元、
つまり空の世界を代表する者として表現された言葉です。
非二元ブームもひと段落した感のあるスピ界ですけど、
これからは、二元も非二元も両方で「全元」だよ!
それは「ゾルバ・ザ・ブッダ」だよ!
これしかないでー!
と最近は思うのであります。
私はまだノン二元も理解できずにいますが気楽にいきれると良いですね。まだ死は怖いです。自分や家族の。死に至る痛み、どう考えるといいですか?
この二元の世界では肉体があるので、それが無くなるのは当然怖いですね。僕もそうでした。非二元の世界を知っていくと、肉体は一時的な現象だってわかって来て恐怖は減っていくと思います。ちょっと軽くなりますね。
お返事頂き、ありがとうございます。体に対して色々思うのですが、身体が老化していくのとか、思うように動いてくれないとか、私はまだまだ抵抗があります。おっしゃられるように、肉体は二元のものなので良いときもあれば悪いときもある、と考えるようにします。ありがとうございました。