よく悟った人のことをブッダと言いますね。
たぶん、
お釈迦様がゴータマ・ブッダと呼ばれていたことが由来で、悟った人のことをブッダと呼ぶようになったのではないかと思います。
ボクの中では、ブッダと言って思い浮かぶのは、
お釈迦様をはじめとして、キリスト、老子、荘子、
ボーディダルマ、一休和尚、白隠和尚、OSHO、
クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシ、太母さん・・・
悟った人というのは、たくさんいたんだろうけど、ボクが本とか
読んで、ブッダとして認識してるのは上のような人たちです。
でも、この人たちは今はもうこの世に肉体がありません。
じゃあ、肉体を持ったブッダというのは今いるのだろうか?
たまたまYouTubeでエックハルト・トールのビデオに出会って
もしかしてこの人ブッダ?って思ったのがきっかけで、その後は
阿部敏郎さんのブロク → 菜穂ちゃん → トニー・パーソンズ
という流れで、いわゆるブッダ(悟った人、解放された人)って
世界中にいるじゃん!という認識になってます。
ここで、用語を確認しておきます。(あくまで塩の定義)
悟り=私がいなくなった状態
解放=私がいなくなった状態がずっと続いている
ブッダ=私がいなくなった状態がずっと続いている人
広島の太光寺で菜穂ちゃんと堀澤祖門さんのコラボがあった時
祖門さんにブッダかどうかを見分ける方法がありますか?
って質問したとき「ない」って言われてそうかーって思ったけど
やっぱ見分けないとまずくね?と思ってジタバタ考えてみました。
(あくまで塩の見分け方)
普通、何かを見るときには主体と客体が発生します。
見る者と見られる者。
見る主体が自分で、見られる客体が周りの世界。
いつも「自分が」他の何かを見ることをしているわけです。
ところが、
ブッダには自分がないので、主体と客体が発生しません。
見る者が見られる者であり、見られる者が見る者である状態、
そこには、見る者も見られる者もない。
ただ「見ること」が起こっている状態。
そのただ見ることが起こっている状態のときに
「あることがあるだけ」というのが明らかになり
例の「時間も距離も空間もない」がわかると思うわけです。
なので、ブッダとノンブッダの見分け方のまとめとしては
結局、「目を見ればわかる」ということになります。
何か対象を見ている目はノンブッダ
ブッダの目は、何かの対象を見ている目ではない、
見ることが起こっている目 ←どんな目やねん(笑)
見ていて見ていない目、空っぽの目。
そんな目の持ち主がブッダなのです(塩的には)
で、菜穂ちゃんの目は、
まさしくブッダの目なんよね(塩的には)