私はいない

生まれたばかりの赤ちゃんには「私」はないよね。

彼は今この世に現れ出た、ピュアな命そのもの。

まだ、全体から自らを分けてなくて、ただ漂っているだけ。
全体が私状態、っていうか、全体しかない状態です。

赤ちゃんは息をするけど「私」が息をしているわけではない。

赤ちゃんは体を動かすけど「私」が体を動かしてるわけではない。

そこでは、全体が息をし、全体が体の動きをしているわけです。
息をすること、体の動きが起こっているって感じですね。

その後、名前が与えられ、言葉が教えられ、知識が与えられ、
脳が発達していくにつれて、彼が経験したことの記憶が蓄積され
その記憶への反応が心(マインド)として機能していく。

という流れで、心という体に付随したマインドシステムが出来上がり、それが全体から私を分けて認識してしまうわけです。

非二元では、「私はいない」ということが強調されるけど、
この世にいる人類全員、もともと私はいなかったわけです。

あなたの体の中には、「私」がいると思っていますよね?

でも、実際は体の中には誰も住んでいない。からっぽ。
誰でもない人、純粋なイノチの現れが本来のあなたです。

私とは人間の発達した脳によって作られた実体のない概念である。ということです。

そしてその私は、作られるものなので一つではありません。

恋人の前にいる時の私と、会社の上司の前にいるときの私、

部屋で一人でいるときの私と、大勢の人の前にいるときの私、

休みの日に遊んでいるときの私と、職場で仕事中の私、

場面、場面。瞬間、瞬間に脳によって作られるのが私です。

私たちは毎日、私という仮面をつけて生活していると言えるかもしれません。

だからと言って「私がいる」を否定するつもりもありません。

私を作り上げて生きていくなどどいう芸当ができるのは、
人間だけですし、それが人間の人間たるゆえん。

喜怒哀楽満載の人生ストーリーを味わいながら生きるのも
ほんとに素晴らしい。なかったらつまんないよね。

もしストーリーの私にできることがあるとすれば、やっぱり
私に気づく、私を観照しながら生きるってことですね。

「あっ、今、私は失敗して悔しがってる!」 とか、

「あっ、今、私は昔のいやなこと思い出してる」 とか

「あっ、今、私が痛がってる!怖がってる!」 とか、

私を観て、私に気づいたとき、私は消えていきます。
なぜなら、その私を観ている者が本当の私なのだから・・・

私の人生ストーリーに埋没しながら生きていく中でも、
「私はいない」を知った後では、物事を楽に見れるというか

この概念だらけの世界が、おままごとの遊び場のように見えて
深刻にならなくなります。

深刻になる私がいないのだから、深刻になりようがない(笑)

最近はね。

「私はいない」も「私はいる」もどっちでもいい。

もともと私はいないのだから。

ってな感じかなぁ~、ホーイ。

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