それは、突然の連絡だった。
6月11日(金)の朝、普通に職場に行って「さぁ、仕事始めようかな」って時に福岡の姉からラインが入った。
「今、お母さんが救急搬送されてます」
えっ! と思ったが状況はすぐに掴めた。
母は7、8年前に大動脈瘤の手術をしていて、もし瘤が破裂したら命の危険があることはずっと医者に言われていたから。
姉に返信で電話したら、ちょうど母の手を握って最後の呼びかけをしていたところだった。
今日の仕事は中止、すぐに福岡へ向かった。
福岡行きのバスの中で、母とのことをいろいろと思い出した。
10年ほど前、私が精神的に鬱っていた時に人吉の温泉に行こうって誘ってくれたこと。
逆に母が夜中に具合が悪くなって私の部屋に来た時、朝まで一緒に過ごしたこと。
なぜか韓流スターのソ・ジソブに会いに一緒に韓国に行ったこと。
八代にいたときは、よく近所のスーパーに買い物にいったね。
母は自分のことよりも子供たちのことばかり考えてる人だった。
42年間、町の雑貨店を切り盛りしながら私を大学まで出してくれた。
私に音楽やら書道やらそろばんやら何でも習わせてくれた。
今思えば、私はまるで王子様のように育ててもらったと思う。
母から受けた恩に対して、自分からのお返しはまるっきし足りない。
これからたくさんお返しするからもっと長生きしてほしい。
でももう遅かった。姉から母の体は葬儀社のほうに移されたと連絡が入った。
天神バスセンターからスマホ見ながら歩いて、やっと葬儀社についた。
コロナが流行ってから母に会ってないので、1年半ぶりの対面になる。こんな形とは・・・
母の体は布団に包まれ横になっていて、まったく動かなかった。
私からは、たくさんの涙と「あぁ~、お母さん」っという声が出たが、涙のほとんどは申し訳なさから出た気がする。
それから2日間、お通夜~告別式と身内だけの小さなお葬式をしました。
この2日間はある意味すごい体験だった。
姉と私と子供たちは、母のことを思い出しながら、それぞれの思いを語り合いました。
母はいつも「私の人生は良かったー。思い残すことは何もないし、死ぬのも怖くない」と言っていました。
自分の写真アルバムの中から良いものを選んで縮小版にしてあり、そのミニアルバムを見ながら今語り合ってること。
今より少し若かった時に、葬儀用のきれいな写真を用意していたこと。
陶器制作の先生に習いながら、自分の骨壺を自分で造っていたこと。
ちょうど葬式代に足りるくらいのお金をちゃんと残していたこと。
母はパーフェクトに自分の旅立ちの準備をしていたのです。
2日間、母の体と一緒に過ごした私たちは最後のお経の後、棺桶に入った母の体の上にお花をいっぱい入れてあげました。
そして何度も母を呼びました。
お母さーん、お母さーん、お母さーん。
もうお別れだよ。お母さーん、お母さーん!
ありがとう、ありがとう、お母さーん。
またどこかで会えるよね。お母さーん!
その後、火葬場に行くために
母の体を葬儀社の駐車場まで運んで霊柩車に乗せようとしたときに、かすかにスーッと風が吹いてきました。
その時に、間違いなく私は見ました。
自分の体が入った棺桶上の空間に、 風と一緒に降りてきた母がいました。
彼女は体より少し大きくなっていて、すごく嬉しそうにしていました。
私は、手のひらを上にあげてみんなに言いました。
「わあーっ、お母さんが来てるよー」
「すごく嬉しがってる!喜んでるー!」
母は体から解放されて自由になり、とても喜んでいました。
意識もはっきりしていて、自分の人生が何だったのかはっきり見通せてるようです。
きっと、この世でいろんな面白い体験ができた上に、最後は思い通りに皆から見送られて旅立つことができて満足してるんだと思います。
現在、彼女の体は自分で造った骨壺の中だけど、意識体(アストラル)は自由に飛び回ってるんだよ。
今頃気づいたんだけど、私の母はほんとにすごい人だった!
こんなパーフェクトな人の子に生まれたことを誇りに思います、
またどこかで会おうね。お母さん!
Love.