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ほんとうのこと

今日は仕事が休みだったので、井原先生の内観会に久しぶりに行ってみたらいつもと雰囲気が違っていた。

なんか人が多いなー。この人たち何者だろう?

と思って話の中に入ってみると、名古屋方面から10人ほど参加されていて、

活発に先生に質問したりして盛り上がっていた。

皆さん、いい笑顔
皆さん、いい笑顔

実は先日、井原先生の本が出版されていて、それを書かれた知花さんがお友達グループを連れてこられたとのことでした。

井原先生の本
井原先生の本

本の中身は、内観会でいつも先生が話されてることを詳しくまとめてあって、奇跡の話もいっぱい書いてあります。

知花さん、熊本の人じゃないのによく調べられてまとめていただいてありがたいです。

おかげでこの本が世に出ました。

そのこと自体ががすばらしいことです。

井原先生が歴史に残るわけだからね。

本の中では、井原先生が「大河原一精」って名前で登場してますけど、精霊一筋の井原先生にはぴったしのネーミングだと思いました。

それから、山下さんの娘さんに降りてくるようになった神様からのチャネリングメッセージも書いてあります。

例えば、こんなメッセージです。
味わってみてください。

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あなたの痛みや苦しみは幻想だ。幻だ。

神様の世界を見失おうとしている時にあらわれる幻にすぎない。

神様のすばらしい世界に生かされているありがたさを、

あなたの全身全霊をかけて感じとりなさい。

そうすれば幻想は消えるのです。

目に見えるものにとらわれるのも、

すばらしい世界のことを感じられない時におちいる苦しみの一つですが、

目に見えない不安や恐怖にとらわれるのも、

自分自身がいかにすばらしい存在であるか、

ということを認識できていないだけなのです。

 

絶対的な素晴らしい世界、神様の世界では

すばらしいもの以外は存在しないのです、

実体はないのです。

あるように見えても、あるように思われても、

一時的なもの、力のないものなのです。

すばらしさの中でしか存在しえないものなのです。

そう、すべては、すばらしい想いから生まれた存在でしかない。

すばらしい想いの中だからこそ存在していられる

ちっぽけな、力のないものについて深く考えなくてもよい。

そんな必要は全くないのです。

2006年4月4日

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井原先生がいつもおっしゃること・・・

神や精霊たちとつながって生きてることは

ほんとうのことだと思うよ。

今、この瞬間にも・・・

すばらしいことです。

 

井原先生の内観会

井原先生の内観会には、もう丸7年通ってます。

内観会の様子

最初は自分の心臓の調子が悪かったときに井原先生に出会って、井原流手当て治療で治してもらいました。

3年前には、私の嫁さんが悪性リンパ腫(4A期)というガンになり、やはりここに通ってガンを治したということもありました。

もちろん、病院での抗がん剤治療と併用してですけどね。

昨年1月に膵臓ガンが発見された私の先輩教師の山崎先生もここに来ています。

山崎先生 ニコニコ元気でーす

山崎先生のガンは(4B期)にあたり、手術で患部を開いたとき、他にも転移していてどうにもならずそのまま閉じたんだそうです。

本人もこれは余命3ヶ月だろうと覚悟したそうですが、その時のショックと葛藤はすごかったでしょうね。

縁があって、山崎先生も井原先生の手当て治療を受けることになります。

それから1年半がたって、現在もニコニコ元気で過ごされてます。

ほんとにガンになって良かったーって思うんだそうです。

ガンにならなかったら、何も知らずに死んでただろう、って。

来月には、地域医療センターで自分の体験を他の患者さんにお話しされるそうです。

ガンも自分の一部だからよちよちって可愛がるのがコツみたい。

すごいねー。ほんとにすごいなーと思います。

井原先生 86歳

井原先生のお話は、

「我々は喜ぶためにこの世に現れてきている」
「いつも聖霊たちが手助けをしてくれている」
「ほんとうは病気が治ってからどう生きるかが大事」
「死ぬときに喜んで死ねるか、死んでからどこに行くかが勝負」

という感じで、基本的に・・・

目に見えない世界の聖霊たちとこの世で肉体を持つ我々が波動のやり取りをしながらこの世界は成り立っていて、聖霊たちの手助けで病気も治ったりしている。

だからいつもニコニコして、喜んで聖霊たちを引き寄せればいいのだよ。

要するに目に見えない世界が本質で、目に見えるこの世界は一時的な現象ということ。

この世のことを現象界っていうもんね。ほんと言葉通りです。

なので、死というものは、現象界からの卒業であり、

卒業した後に本質的な生が待っているってことですね。

これが腑に落ちるとほんと楽になりますからねぇー(^。^)

井原先生は、死んだ後に自分がどこに行くかがわかるそうです。

いつも「死ぬのが楽しみだー!」って、言われてます。

もう千回くらい聞いたかもね(笑)

ワシャなーんもせんとばってん、
上から神様が下りてきて治すとたい

ここで、皆があおむけになって先生の手当てを受けるときに、私はいつも座禅の形をとって瞑想に入るのだけど、なぜか10分くらいで眠くなってしまい横になって寝てしまいます。

普段は30分くらい座禅してもまったく眠くならないのにね。

どうも、ここにはそういうリラックスを誘う波動みたいなものがあって、それが目に見えない聖霊たちの癒しの波なのかもしれません。

目が覚めた後は、すーっと生き返るんだよねー。

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【井原先生の内観会】

●日時:毎月 第1、第3、第4土曜日 13時30分~

●場所:熊本市 中央区井川淵町4-1 碩台公民館2F
    (藤崎宮隣りです)

●参加費:無料だけど皆さん寄付金を封筒に入れて渡されてます
    (多分1000円程度)

ガン、脳梗塞、心臓病、パーキンソン病、金欠病、不安病、

幸せな人、不幸せな人・・・そんな人たちが集まる

まぁ、何というか、不思議な波動の場所です。

参加希望の方は、ご連絡ください。

私の宇宙観

井原先生と出会って1年半が過ぎ、
私の宇宙観・世界観もだいぶ変わってきたと思う。

以前は、目の前にある「この世」のことしか
考えてなかったのでそれが全てだった。

今は井原先生の影響で、「あの世」も含めた世界観に
すっかり変わった。

今日は、現時点での私の宇宙観・世界観を書いてみようと思う。

そもそも、この宇宙は137億年前にほんのわずかの「ゆらぎ」が起こったことをきっかけとして、ビッグバンと呼ばれる大振動に発展しで形成されました。

太陽も、月も、地球も、我々人間も、「ゆらぎ」の産物なのです。

では、その「ゆらぎ」はなぜ起こったのか?

私は、それは神の想い(愛)が起こしたものではないか、と思っています。

この宇宙は神の想いから始まっているのです。

今現在もあらゆるところがその神の想いであふれています。

想いというのは、ある種の波動(振動、ウェーブ)です。宇宙のすべては波動です。

目に見える物質も波動、目に見えない魂も波動です。

人間が死ぬと肉体は動かなくなり朽ち果てていきますが、魂は目に見えない波動として残ります。

我々の本質は肉体ではなく魂という波動です。肉体は単なる乗り物です。

肉体から離れた魂は、あの世と呼ばれる世界の自分が行くべき場所へ導かれて行きます。

この世では、善人も悪人も、波長が合う人も合わない人も一緒に同じ世界に暮らしていますが、

あの世では魂の波長で引きよせ合い、波長が合う人たちのグループが形成され、違うグループの魂が交わることはありません。

あの世は、おおざっぱに言うと、3つのグループに分かれます。

この世において神の想いを知り、それに向かって成長し、悟り~光明(サマーディ)の境地まで達した人々が集まる賢者たちのグループ。

ここにいる賢者たちのことを私は神々と呼んでいます。

この世では、日々の世俗的な物事にとらわれて一生を送ってしまった人々。

ほとんど神の想いに気づくことがなく、悟りの境地にも達しなかった普通の人々。

一般人、凡者たちのグループ。

この世において、残念なことに神の想いに反するような一生を送った人々。

愛を知らず、人を憎み、苦しめ、だまし、おとしめることに一生を使ってしまった愚者たちのグループ。

この世は、死んだ後にあの世の賢者グループに行くための修行の場です。

この世で光明を得ることができずに賢者グループに行けなかった魂たちは、新しい肉体を見つけて輪廻転生を繰り返しますが、

賢者グループの神々たちは神と同化しているので、もう人間に生まれる必要はありません。

井原先生は、よくおっしゃいます。

死ぬのは悪いことではない。死んだ後にどこに行くかが問題なのだ。

この世では、死んだ先にどこに行くかの勝負をやっているんだ。

そして、この世とあの世とは別々のものではなく、
コインの表裏のようなもの。

片面がこの世、もう片面があの世。
あの世もこの世も同じ一枚のコイン。

この世とあの世が一体になって、
魂たちの波動の交流をしながら宇宙は動いている。

賢者クループの神々は、いつもそばにいて
「こっちへおいで」と手招きしているのです。

我々人間は、この世にて、神の想いに目覚め、
神々と波長を合わせて成長し、そして

光明を得て自らが神々となり、
まだ悟り得ぬ魂たちを神へと導いていくという、

神が創った素晴らしいサイクルのなかで生きている。

この宇宙は、ちょっとした神の遊び場だ。

神は、宇宙の中に、人間という自らの種をまき、
その種たちは成長して自ら神となり、

その波動を宇宙に還元して
より神性にあふれた素晴らしい宇宙を創っていく。

我々は、神の種としてこの世に生まれた、成長途中の神の子だ。

人生の目的とは何か?と問われたら、

「死んで神となること」と、今は答える。

さとりの体験?

それが、何だったのかわからないが記しておきます。

2012年10月9日の出来事

私は、ここのところずっと夕方に瞑想をする習慣があり、
その日もいつものように瞑想をしたのですが、
瞑想の後、そのまま眠りに入ってしまいました。

眠りから覚めてしばらくは、
なんとなく体の具合がよくない感じで
ぼーっとしてたのですが、

不意に右上方の空間から振動のようなものが
ザーッとやってくるのを感じて、

いったいこれが何なのかわからないまま、
その振動にまかせていました。

だんだんと、
その振動が体の中から湧き上がってくるようになって

力がみなぎってきて、肉体の目が大きく開いたのと同時に、
内側の目も音が聞こえるくらいにパカッと開きました!

すると、ものの見え方が今までとまったく違って
見えるようになりました。

ちょっと上から見ているような感じで、
すべてがリアルに見えるのです。

言葉では、到底うまく表現できないですが・・・

あの世とこの世が一つになって全体が見える感じ・・・

見る側も見られる側もなく、
見ることそれ自体になった感じ・・・

在るそのものが在るのがはっきりとわかるのです!

ワーッと内側から喜びが湧いてきて、
(喜びのレベルが普通じゃない!)

わかった!わかった!これが悟りだ!悟りだ!

もう死ぬのもまったく怖くない。
死なんてないよ!ウワァーー!!

しばらく、その喜びのなかにひたっていながらも、
なぜか、これが悟りなら、これからどうなるんだろう
という思いもありました。

多分、その状態は1時間も続かなかったと思います。

しばらくすると、それは潮が引くように去って行きました。

それから、2か月以上経ちますがその状態はやってきません。

その状態を望めば、それが欲望になるので来ないのでしょう。

気楽に待つよりしょうがないのかな。

あとで、井原先生にこのことを話すと、先生は
「私もそういうのはよくあるよ。」だそうです(笑)

今日の話は、まったくもって主観の話なので、それが
「悟り」と呼ばれるものかどうかはわかりません。

ただ、そういう状態があるということはわかったので
今後の励みになります。

自分などない

井原先生は、よくおっしゃいます。

自分なんてない。
自分というものは、勝手に頭の中に作り上げた妄想だ。

人々は、ないものを勝手に作って、
勝手に悩んだり苦しんだりしている。

私もまったくその通りだと思う。
(先生と違って、私にはまだ自分があるので、
毎日もがき苦しんでるわけだが・・・)

自分というものを考えたとき、それは国境と似ていると思う。

地球儀でみる地球には、国境の線が引いてあって、
ここが中国、ここがインド、ここがロシアというふうに
国が分かれている。

ところが、宇宙から見た実際の地球には、国境の線などはない。丸ごとひとつの地球だ。

国境など本当はない。
国境というのは、人間が頭の中に作り上げた妄想だ。

神は、地球は創ったが、国境は創ってない。
国境は人間が勝手に創ったものだ。

地球は本当はひとつなのに、国境で国が分けられ、
戦争や紛争が起こっている。

人間はないものを勝手に作って、
悩み苦しんでいるように見える。

生まれたばかりの赤ちゃんには、まだ自分というものはない。

自分を持たない赤ちゃんは、宇宙の一部としてそこに在る。
宇宙とひとつになっている。

宇宙と赤ちゃんの間には何の線も引かれていない。

赤ちゃんは、宇宙(神)とつながっている。
だから彼はいつも幸せそうに見える。

ところが、親や周りの者が彼に名前を与え、あれこれと
・・・しなさい。・・・でなければならない。

といった類のことを教えだし、
だんだんと自分というものを持つようになる。

自分というものができると、彼は宇宙と分かれてしまう。

まるで国境のように宇宙と自分の間に
線を引いてしまっているようだ。

そして、自分ができると同時に他者というものもでき、
他者との関係で悩み苦しみが始まる。

もともと私たちは、自分の意思で生まれてきたわけではない。

もちろん父と母の愛の産物としてこの世に生まれてくるわけだが、父と母は子供を作る能力を自分で創ったわけではない。
その上の親もそうだし、またその上の親もそうだ。

すべての父と母は、適齢期になると子供を作る行為をするようにプログラミングされているだけだ。

そのプログラムを誰が創ったのかと考えると、・・・・神だ。
私たちは神の意思でこの世に生まれてきている。

この世に生まれた後も、私たちは自分では生きていない。

自分で息をしているのではないし、
自分で心臓を動かしているのでもない。

意識しなくても自然に息をするように、
心臓が動くように創られている。

さらに親切なことに、息ができるように空気を、
心臓が動くように食べ物が用意されている。

空気や食べ物がなければ、生きていくことは不可能だ。

私たちは、神の意思で生まれ、
神の意思で生かされている存在だ。

神の意思とは愛だ。

それが愛でなければ、空気や水や食べ物や美しい木や花や
恋人たちがこの星に用意されているはずはない。

この世界は、愛と呼ぶものでできている。
創造の根本のエネルギーは愛だ。

私たちは、神が出している大きな愛の鼓動のひとつとして、
今ここに在る。

この世のすべては神の表れなのであって、
自分などというものはどこにもない。

先生がおっしゃるとおり、自分というものは、
勝手に頭の中に作り上げた妄想だ。

私は以前に、これまでの人生で神などというものには出会ったことがないと書いたが、

自分という妄想から抜け出したところに、きっと神が待っていると感じている。

生まれたばかりの子供のようになって、また神とひとつになりたいと願っている。


輪廻と死後の生

私が、初めて死というものを意識したのは、10年ほど前だった。

その日は、休日で家で休んでいたのだが、
突然「あれ、なんとなく心臓のあたりが気になる」と感じた。

普通心臓が動いているなんてわからないわけだが、
心臓が動いているのがはっきりとわかるのだ。

そして、だんだんと心拍が強くなっていき、
何かグーッと圧迫されるような感じになった。

うわっ、ヤバイ、ヤバイ。
場所が心臓なだけに、かなりのパニック状態になった。

あわてて、隣の部屋にいた嫁さんのところに行って、
心臓がヤバイことを伝え、

今より悪くなったら救急車を呼んでくれといって
ベッドに横になった。

しばらくしたら、
少しずつ気持ちも心臓も落ち着いてきたので、
救急車を呼ばずに済んだのだが、

小心者の私は、回りにお迎えがきている感じがして、
ほんとに死ぬんじゃないかと思った。

その日をきっかけに死というものを現実として
考えるようになった。

死について、考えれば考えるほど怖くなってしまう。

なぜなら、この今生きて存在している自分自身がすべて
なくなってしまうのだから・・・

死は自分からすべてのものを奪ってしまう。

死後には、もう何も見れず、何も食べられず、
何かを考えることも感じることもできない。

今までの自分の人生は、何だったのだろう。すべて失敗だ。

その人生でどんなに成功して、お金持ちになっても失敗だ。
死んだらお金に意味はない。

お金持ちには成れなかったが、愛する人と暮らせても失敗だ。
死んだらその人にはもう会えない。

どんな人の人生も、すべて失敗だ。
なぜなら結局、最後には死がすべてを奪ってしまうから・・・

私には、ほかの人は皆このことを知っているのに、
気づかない振りをして生きているように見える。

自分自身も、気づかない振りをして、
なんとなく惰性で生きてきた。

ところが、井原先生は明快におっしゃいます。

死は存在しない。
死ぬのは肉体だけであって、魂は死なない。
魂は不滅だ。と・・・。

先生のお話では、人間は死ぬと肉体から離れて異次元にあるいわゆる死後の世界(霊界)に行くのだそうです。

そして死んでから、自分が霊界のどの位置に行くのかが楽しみなのだそうです。

死後の世界については、自分は死んだ経験がないため、なんとも言えないのですが、

霊界に行ったことがあるという、
スウェーデンボルグの記述が参考になると思います。

もともと、インドなどでは輪廻という考え方があります。

輪廻とは、この世のすべては繰り返すということです。

朝、東から上った太陽は、頭の上を通って夕方に西へ沈みます。
そして翌日の朝、また東から上ります。

季節は、春→夏→秋→冬と変化し、また春がやってきます。

山に降った雨は川となって流れ、海にいたり、
蒸発してまた山に雨を降らせます。

春になって、咲いた桜は、はかなくも散ってしまいますが、
次の春にはまた咲き始めます。

このように、神が創った自然の世界では
すべてが繰り返しています。

神は、きっとすべては繰り返すという
法則・ルールを作ったのです。

そう考えると、
死ですべてが終わってしまうというのは、
なにか不自然です。

人生も、誕生→幼年→青年→壮年→老年→死ときたら、
次には誕生が来ると考えるのが神の法則に従った、
自然な考え方ではないでしょうか?

私はまだまだ修行不足で、先生のようにはっきりと
死後の生を知覚することはできないですが、

この人生のどこかの地点で、
死の後に続く永遠の生に目覚めることが、
死の恐怖を乗り越える唯一の方法だと思っています。


神とは何なのか

神とはいったい何なのかについて考えてみた。

私は、これまで「神が人間をつくった」のではなく、
「人間が神をつくった」と思っていた。

どこかの宗教団体の教祖が信者を支配するために、
神という絶対的な力をもった、人のような形をした
イメージを作り上げたのだと思っていた。

実際に、これまでの私の人生で神などというものには、
出会ったことがない。

ところが、井原先生ははっきりと
「神は存在する」とおっしゃいます。

私たちは、毎日毎日、神様と出会っているが、
それに気づかないだけだ。と・・・

この広い宇宙のなかに、地球という星があって、
その星には不思議なことに人が生きてゆくのにちょうど良い、光、空気、水、重力、さらに美しい木々、花々、・・・

すべてが人間のために完璧に用意されている。
これらは、いったい誰が創ったんだろう?

光も、空気も、水も、重力も、木も、花も、
人間が創ったものではない。

やはり、神様が創ったというしかない。と思う。

実際、人間はえらそうにしているけど、何一つ創っていない。
神様が創ったものを利用して生きているだけだ。

話は変わるが、最近の物理学では、
物というものはないということだそうだ。

最新技術を使って物質を、分子→原子→素粒子→と
小さく見ていくと、その先にはもはや物と呼べるものはなく、
現れたり、消えたりする運動(ゆらぎ、波動)がある
ということだそうだ。

物を研究する物理学で、物がないということがわかった
というのは笑ってしまうが、

これは、まさに2500年前にお釈迦様が言った
「色即是空」そのものではないか。

色(有ること)、これすなわち、空(無いこと)である。

私は、この有から無、無から有へと変化させる根本のエネルキーのところに、何か神が関係しているのではないかと思っている。

神はきっと、
何もないところから何かを創り出す事ができるのだ。

そして神はきっと、
何か有るものを無くしてしまうこともできるのだ。

考えてみれば、
人間もこの世に生まれ出でては、死んで消えてゆくもの。

これは無から有、有から無への運動ではないか。
木や花やまわりのものすべてがそうだ。

さらに大きく考えれば、
この宇宙そのものがビッグバンから始まって現れ出でて、
はるか遠い未来には消えていくもの。

やはり無から有、有から無への運動。

すべては、神のうちにあるのだ。

神は、この宇宙のあらゆるところに、あらゆる形をとって現れ、
そして無へと還っていく・・・

言ってしまえば、

神とは宇宙全体の運動のこと。宇宙全体が神だ。

この世のすべては神の現れ。

神は、木々の中に現れ、山に現れ、川に現れ、
人間の中に現れ・・・

われわれは、神の現れなのだ。

・・・今日は、そんな気がした。


井原先生について

初めてお会いしてからまだ3ヶ月も経っていないが、
これまで先生が自身について話されたことも交えて、

井原先生とはどんな人なのかについて書いてみたいと思う。

先生は、現在79歳で熊本市在住、
人を助けることを使命とされていて、

先生の回りでは、病気が治った、
仕事がうまくいくようになった、
お金が回るようになったなど
奇跡的なことが起こっています。

これらの奇跡は、先生が起こしているというよりも、
先生を手伝っている神様が先生を通じて起こしている
と言ったほうがより正確かもしれません。

先生にとっては、奇跡は当たり前のことのようです。

先生の生い立ちについて、
私がわずかながら知っていることを書くと、

先生の祖父が宗教的な人で、
やはり人を助けるようなことをされていたようです。

また父親は、肺炎持ちだったそうですが、
自分で研究してそれを治してしまった
ような人だったそうです。

先生自身も子供の頃から、
「人を助けるようなことをするんだ」
という意識がなぜかいつもあったそうです。

いろいろ宗教も勉強されたようです。
先生が特定の宗教を信仰されているということはないですが、
スウェーデンボルグやエマーソンなどの名前が先生の話の中に出てくることがあります。

先生が、子供の頃に川に魚とりに行った話で、
水面に魚とそれをすくおうとする両手があって、
その瞬間自分が消えるという体験がよくあったそうです。

それは、すばらしく気持ちのいい体験だったそうで、
そのような神秘的な体験を経ながら成長されたことが伺えます。

そして40代の時に、
当時鹿児島の山奥でケーブルを敷設する
仕事をやっていたそうなのですが、

先生の表現で「光がどーんとやってきた。」
という体験をされています。

その時以降、神からの「人を助けなさい」というメッセージがより強く来るようになり、病気を治したりする奇跡を起こせるようになったそうです。

私の主観になりますが、先生がどのような人かを一言で言うと
「神と一つになれる人」ということになります。

神は純粋な想いを持った無我の人のところに降りてきます。

先生は、いつでも無我の境地に入れて、
神と波長を合わせることができるのです。

だから先生を通して神が奇跡を起こせるのだと思います。

実際、私は内観会の時に、先生の前に座っていて
その強いエネルギーを感じることができます。

そしてだんだんと体が温かくなってきます。

横になって治療を受けているときには、自分の体が
勝手に動き出してとまらなくなったりすることもあります。

そんな人とこの世で現実に出会えていることを幸運に思います。
というか、こんなラッキーなことはほかにありません。

自分は、これからもずっと先生について回って、
神のエネルギーを吸収して、いつの日か先生が見た
「神の光」をみてみたいと思っています。

先生!今後ともよろしくお願いします。


井原先生との出会い

2011年の夏、体も心も最低の状態だった。

家族とうまくいかずに家を出たり、仕事中に倒れたりした。

いつも不安でウツな状態で、何の予兆もなしに突然心臓がバクバクしだすこともしばしばだった。

そんなときに友人から気功みたいなもので病気を治す面白い人がいるという話を聞いた。

何でもその人は、「自分が治してるんじゃなくて、上から神が降りてきて神が治してるんだ」と言ってるらしい。

それで、実際に病気が治ったりしているらしい。

もともと若い頃から気功や瞑想には興味があって、体調を整えるために久しぶりに気功教室でも行ってみようかなと思っていたので、すぐに決心して一度行ってみることにした。

8月20日の土曜日に初めてその会に参加してみた。
公民館のボードには内観会と書いてあった。

会には10人ほどの人が来ていて、最初は長机を囲んで先生と雑談するというスタイルだった。

先生は、元気のいい普通のおじいさんという感じで、年齢は79だそうです。

そのときに何を話していたかは詳しく覚えてないが、この世界は、人が生きていくために花や水や太陽や美しいものすべてを神が用意してくれている。

それだけでもすごいこと、まさに奇跡ですよ。

みたいな感じだったと思う。

雑談タイムが終わったら、一人当たり3枚ずつ敷いた座布団の上に仰向けに寝てリラックスした状態でいてくださいとのこと。

先生が一人一人を回って治療するんだなと思って目を閉じて待っていた。

しばらくすると、私の順番が回ってきたらしく、先生の手が頭を軽く触って両手で頭頂部を包み込むような形で止まった。

暖かい気みたいなものを感じながら、そのまま閉じた視界を見ていると真ん中にぼんやりと明かりが灯ったような感じだった。

1,2分すると手が暖かさとともにゆっくりと胸のほうに移動して止まった。

心臓の周りが微妙にちくちく、ぴくぴくと振動している感じがあり、ゆっくりと息をしているとだんだんと気持ちよくなってきた。

しばらくすると、先生は次の人のところへ移動していったが、私はそのまま気持ちのいい瞑想状態に入っていた。

先生の治療初体験は、私にとって、久しぶりの癒しの時間といったものだった。

治療後、先生は「あなたは、心臓が悪いみたいだね。自律神経からきてるようだけど、すぐに治るよ。」と言われた。

心臓の調子が悪いなどとは、一言も言ってないのに言い当てられたことにちょっとびっくりしながら、不安だった気持ちがすっかり溶けてしまってるようだった。

これが、井原先生との始めての出会いだった。

それから毎週かかさず内観会に参加して2ヶ月ちょっとたった今は、知らないうちに治ってしまったようで、心臓のことなどまったく気にせずに暮らしています。

先生には、ほんとに感謝するしかないです。

ありがとうございます。