聖書の言葉

うちの職場の会議では、開始前にチャプレンが聖書の言葉を述べることになってます。

今日チャプレンは、あの有名なイエス・キリストの「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言葉について話されたんだけど、

よーく聞いても意味が分かんなかった(笑)ので、いろいろネットで調べてみたら

一般的には、左頬を出すことによって「相手を許し、愛情を示すこと」と解釈されているみたいです。

また、アメリカのハーバード大学では、以下のようなユニークな解釈の講義をやってたんだそうです。


・普通に右利きの人が正対した相手を殴ると相手の左頬に当たるので、右頬を殴るためには、手の甲で裏拳打ちすることになる。

・昔は、卑しい身分の奴隷を殴る時、きれいな手のひらで殴ると手が汚れると考えられていたので裏拳で殴っていた。

・そこで、右頬を裏拳で打たれた後に、左頬を差し出せば手のひらで打たざるを得なくなる。

・手のひらで奴隷を打つと「主人と奴隷」は「対等の関係」になって、主人にとっては屈辱的なことになってしまう。

・イエスは暴力を用いることなく、主人と奴隷の関係という立場を変えてしまう「平和的な闘い方」の精神を教えていた。

トカナのサイトより


これ面白いけどホントかなぁ~。ひねりすぎじゃ?って感じしない?

しおの解釈は、ちょっと違っていて・・・

バーンって片頬を叩いた後にもう片方を差し出されたら、

「ん、なんだ?」って、一瞬はっとして、時間が止まるよね。

その一瞬に、自分がやったこと(人を殴ったこと、愛のなさ)に気づいてもらうためなんじゃないかな?て解釈しました。

イエスが十字架に架けられるとき「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書)

と言ったように、悟りを得た人が悟後に何をするかというと、もう自分の問題はなくなったので、あとは他者に気づきを与えることしか残らないんだよね。

イエスも仏陀もOSHOもエックハルト・トールも菜穂ちゃんもじゅんころさんも,いわゆる悟っちゃった人がやってることは、あとから来る我々に気づきを与えること。

じゃないかと思うんだよね!

んー、でもねー。黎明によれば・・・

聖書経典に出てくる言葉は、普遍意識に到達した人が言葉にできないものを例え話として語っているのであって、ホントのところは言葉にした時点で普遍意識とは違ったものになっている。

その例え話を、自我マインドを使って解釈してもどうにもならないし、言葉だけを追いかけても、元の真実から離れていくだけだと思うんだよねー

だから、先ほどのしおの解釈も含めて、覚者の言葉を解釈すること自体がナンセンスなのかもしれない。

よく言われるけど、、、

覚者の言葉は「真実を指し示す指」であり、指のほうに気をとられてあれこれやっても真実には辿り着かないってことですね。

こんな解釈劣化は、キリスト教、仏教、イスラム教、その他宗教で起こってきたことで、同じ宗教の中にいくつもの宗派があることがそれを証明している。

一人のブッダが語った事が、いくつもの解釈をされて、いくつもの宗派に分かれる。

そして、分かれた宗派同士で争うパターンってよくありますね。

キリスト教も仏教も、元は一つだったのにね。

じゃあ、どうしたらいいの?ってことになるけど、

・・・うーん、わからん(笑)・・・っていうか、

要は頭で解釈しなければいいんじゃないかな。

その言葉の背景にあるものを直接感じてみる。

言葉の源にある普遍意識のほうに目を向けてみる。

その普遍意識と一体化したときには

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」

と言った時のイエスにあなたはなっている

ってことじゃないかなぁ~

だから、覚者の言葉に触れるときには、

その言葉の意味にこだわるよりも、

その言葉が自分の波動と共鳴するのか?

が重要なんだと思う。

共鳴が起こった時には、黎明で言うところの

普遍意識が降りてきて、言葉の意味が明らかになる。

そんな感じだと思うんだよねー。

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