24歳の時、OSHOの本に出合ってから、ずっと悟りを追いかけてきました。
ところが最近は、悟りとかないんじゃね?って感じなんですよねー。
もう何十年も追いかけてきたものが実はなかったとしたら?
どーすんのよ。これ~(笑)
大光寺であった菜穂ちゃんのサットサンで三千院門主の堀澤祖門さんに「悟りを得た人かどうかを見分ける方法はありますか?」と聞いたら即答で「ない」といわれました。
悟ってるかどうかの客観的な評価方法はないということですね。
仏教や禅とかの伝統では、悟りを得たと言われる師が弟子に認可を与えるみたいなことが行われているようです。
これは、師から「よし、お前は悟っとる!」と言われたら、晴れてその人は悟ったと名乗れるシステムですね。
その悟りの認可は、あくまで師の主観によるものなので、客観的・科学的な評価ではありません。
入学試験に合格したー!とかと違って、悟りには客観的な評価は無理だということなのでしょう。
なぜ評価できないのか考えてみると、
悟りというものはどこにもないから(笑)
まず、悟りという言葉は、単に言葉なので悟りではないし、
その言葉が指しているものは、あいまいではっきりしない
つまり、単にイメージなので、評価のしようがない
悟りと言われて何をイメージするでしょうか?
微笑んでいるお釈迦様の顔?
ハスの花を携えて瞑想している自分?
超能力を身につけ雲に乗って空を飛んでいる姿?
光に包まれた天国の地で下界を眺めてる自分? とか?
それ妄想ですからねー。そんなんありませんから。
そういう思考が今湧いているというだけのこと。
どこにもないものを追いかけても、見つかるわけないですよね。
私は今まで何十年も、悟りという頭の中のイメージを追いかけていたということに最近やっと気づいたのです。
気づくの遅くね? アホやなぁ~
探究者がすべきことは、逆にそういうイメージを取り除くこと。
気づいて、見抜く。するとイメージは自然に消えていきます。
すべての概念が落ちていって、消えていったあとにあるもの。
言い換えると、解脱のあとに残るもの。
そこにあるのが悟りだった!
っていうオチなんですけどねー
で、その悟りというのは、単にあるがままにあるだけで、
何かになるわけでもなく、ただ本来の面目に還るだけのこと。
ホントは悟りでもなく、目覚めでもなく、解脱でもなく、
名前なしの、言葉なしの 「 ある 」 なんだけど、それは
あれれ、全部が悟っとるやーん!
ガーン!普通の事がとんでもない奇跡だった!
もともと自由しかなかったやんけー!
って発見なのかもしれません。
でもそれ以上は、やっぱもう、しおには言えないですね~
・・・悟ってないから(笑)
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結局、今日言いたかったこと。
ホントはね。
悟りとかそういうもんはありませんからー。
それ、イメージですからー。
ほーい!ほーい!
自分もいつも そう思っています❗ 人生には
悟りもゴールもないと❗ 行けるところまで 行くだけ❗ (^_^)v
ありがとうございます。その通りですねー。死ぬまで生きるだけ(笑)