「2019」カテゴリーアーカイブ

重なった世界

「シュレーディンガーの猫」という思考実験があります。

どういう実験かというと・・・

まず箱の中に猫を一匹入れる。

その後、放射性物質と毒ガス発生装置を箱に入れてフタをする。

箱の中で放射性物質が原子核崩壊を起こせば、毒ガスが発生する仕掛けになっています。

毒ガスが発生すれば猫は死にますね。

さて1時間後、猫の様子はどうなっているのか?

猫の生死はフタを開ければわかります。

生きているか、死んでいるかのどちらかです。

では、フタを開ける前のネコは・・・

生きているのか?死んでいるのか?

量子論では、それどっちもだよ。

生きてて死んでる猫がいるんだよと言います。

箱の中では、生きた猫と死んだ猫が重ね合わさった状態になっていて、

誰かが観察した瞬間に波束の収縮が起こり猫の生死が決定する(コペンハーゲン解釈)というのです。

えっ? 死んでて生きてる猫なんてありえん。

死んでるか生きてるかのどっちかやろって普通は思いますよね。

だけど、量子論では生死が重なった状態は普通にあり得ることで、

最近話題になっている量子コンピュータもこの重ね合わせの原理を応用しているのです。

在りし日のコジロー

さらに、多世界解釈(パラレルワールド)というぶっ飛んだ解釈もあります。

フタを開けた瞬間に世界が二つに分かれて、猫が生きている世界と猫が死んでいる世界に分かれるというのです。

えーーっ、そんなことは信じられなーい!と普通は思いますね。

我々が、そんなの信じられなーい!と思うのは、その二つの世界はお互いに他方を知ることができないからです。

猫が生きている世界にいる観察者は、猫が死んでいる世界を知ることはできず、

猫が死んでいる世界にいる観察者は、猫が生きている世界を知ることはできない。

なので、他方の世界があるとは信じられなーい!ということです。

量子論で言っていることが、トンデモ話に思えたり、バカっぽく見えたりするのは、量子論の解明事象が現在の人間意識より進歩した先のものだからです。

エヴェレットの多世界解釈(パラレルワールド)は、コペンハーゲン解釈を補完する有力な理論だそうです。

量子論が語る宇宙の在り様は、

宇宙全体は重ね合わさった波動状態になっていて、そこに観察者の意識が関与すると波束の収縮が起こり、ひとつの世界が現れる。

そこに現れる世界は、観察者の意識状態により無数の表現形態をとる。

まさに、今この瞬間にあなたが世界を創造しているということですね。

なんかねー、量子論にハマると世界の見え方が変わってきます。

半田広宣さんのヌーソロジーも私には量子論だと思えます。

量子論もヌーソロジーも人間意識の進化を目指してる。

どっちも難しくてあまりよくわかってないんだけど(笑)

こういうの面白くてやっぱり好きですねー。

量子論と宗教

最近は量子論の本を読んだりしてます。

量子論を楽しむ本
量子論を楽しむ本 佐藤勝彦先生 わかりやすい

 

スピリチュアルな探求には、量子論はハズせないと思う。

自分の場合、スピから量子論に辿り着いて、その共通点の多さに驚いてます。

今回はスピと量子論の共通点を以下にまとめてみます。

 

量子論では、「素粒子は粒子であると同時に波である」と言います。

物質を→分子→原子→素粒子と見ていくと、その先には物と言えるものはなく、粒として現れたり消えたりする運動(波動)がある。

これは般若心経の色即是空とまったく一致する。

色(物)は、即ちこれ、空(無)である。

色が粒子で、空が波にぴったり当てはまる。

般若心経では、この後さらに空即是色と続く。

「色即是空 空即是色」を量子論風に言うと、

「粒即是波 波即是粒」となる。

2千年前に仏教で説かれていたことが、現代科学で正しいと証明された。

2千年前は、科学は発達してなかったけど、瞑想によって般若の知恵と一体化することにより量子の世界を感知していた。

これよく考えるとすごいことだよねー。

この三次元世界の全てのものは、その最小単位の量子レベルで現れたり、消えたりするダンスを踊っている。

我々の肉体、思考、感情も素粒子から成り立っているわけで、今も量子レベルのダンスを踊ってる。

ちょっとそれを感じてみる。量子瞑想(笑)

この世界には、固定されたモノは存在しない。

すべては、波動、ゆらぎ、ダンス。

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岸根卓郎先生の本、何度も驚いた!

また、量子論は人間の意識がこの世界(現実)を創造したり、変えたりすると言います。

先ほどの素粒子が現れたり消えたりする様子をもう少し詳しく説明すると、

素粒子たちは誰も観察していないときには、波として広がっているのだが、人が観察すると「波束の収縮」を起こして粒として現れるそうです。

その現れ方も観察者によって、違った現れ方をする。

これは、一体どういうことだろうか?

人間の意識(観察者)があって初めて世界は現れるということです。

「誰も見ていない月は存在しない」という量子論の有名な言葉があります。

アインシュタインはこれに大反対したそうだけど、真実はこの言葉通りであり、あなたが見ているから月は存在するのです。

月に限らず、今この世界として見えているものすべては、人の意識が創り出している。

実在(万物)は観測されるまでは実在ではなく、全ての瞬間に、あなたが世界を創造している。

最近、量子論では観察者とは呼ばずに、関与者と呼ぶようにしたそうです。

観察するものとされるものが、お互いに関与しあって世界は創造される。

スピでも「あなたが世界を創造する」「あなたが変われば世界が変わる」とかよく言われるけど、

人の意識が世界の創造に関与していると、すでに科学で証明されていたんですね。

引き寄せがうまくいった!とか、マントラで願いが叶った!とかよく聞くけど、

量子論的に見れば、これは自分の意識が望む世界を創り出すことによって現れる現象だと言えます。

 

さらに量子論では、

万物は空間に同化した存在であり、「空間は万物を生成させる母体である」と言います。

これは、スピ系の世界でよく言われる「無はすべてである」と同じことですね。

例えば今、体の周りに空間が広がっているわけだけど、何もないところにもテレビやラジオやスマホやWifiの電波が飛び回っている。

外で犬が吠えればワンワンという音波動が、鳥が鳴けばチュンチュンという音波動が耳に届き、人の意識と絡まって世界を創造する。

目の前にあるのは全てが波動で、可視光線として目に見えるものだけが脳で認識されるけど、実は不可視なもののほうが圧倒的に多い。

空気は目に目えないけど、まわり中を満たしているし、そもそも光は光子という素粒子だからね。

何もない無の中では、素粒子たちが現れたり、消えたり、生滅を繰り返していると量子論は言います。

素粒子たちはこの世とあの世をつなぐ「神の使い」なんじゃないかと思う。

あの世とは「源泉」のこと。この世界が現れる根本の意識。

神、仏、ブラフマン、タオ、存在・・・いろんな呼び名で呼ばれる。

時間もなく、空間もなく、ゆえにこの3次元世界を超えた「源泉」からこの三次元世界が現れる橋渡し役となっているのが素粒子たちなんだよね。

対して、この世とは「幻」のこと。ヒンズーではマーヤといいますね。

この世には実体のあるものは何もなく、全てが生滅する波動であることはすでに証明されてる。

これは科学的な真実なんだから、もう文句を言ってもしょうがない。

今ここにあるものは、あの世の意識が素粒子を通して表現された世界。

神が素粒子を通して表現したこの世界で、我々はどういうわけか世界があるという経験をしてる。

とても不思議なことではあるけど、言えるのはこの世で何が起ころうとそれは一時的な現象であり、生まれては消えるを繰り返すということ。

この世が幻だということがわかれば、悩みはなくなると思うんだけど、

どうだろう?単純すぎる?

楽観的すぎるかな??

でも、どんな悩みにも実体がなく、生まれては消えるのは真実だからね。

求めている本当の、永遠の真実というのは、この世ではなくあの世の方にあると思う。

もうすでに量子論はあの世の解明に入っていて、この宇宙が何故生まれたのか?ということもそのうちに解明されるかもしれません。

現在の宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教などいろんなものに分かれて別々の主張をしてるけど、

科学的な真実はただ一つだけだから、量子論はこれらを一つにまとめるのではなかろうか?

遠くない将来には、宗教と科学を統一した「量子宗教」ができると思うよ。

神の心の発見

また井原先生から貸してもらった本の紹介です。

量子論から解き明かす神の心の発見(岸根卓郎)

この本を読んでまずビックリしたのが、「人間の心こそが宇宙の心である」と断言してること。

著者の岸根卓郎氏は京都大学の名誉教授で、数学、数理経済学、哲学など広い分野で有名な先生なんだそうです。

その先生が、「量子論は、見えない人間の心が、見える宇宙を創造していることを科学的に証明した」と断言しているのだから、こりゃインパクトありますねー。

これからの時代には、量子論的な世界観が重要になってくると思います。

量子論のコペンハーゲン解釈で「誰も見ていない月は存在しない 月は人が見たときはじめて存在する」というのがあるけど、これが当たり前の感覚になった時に人は進化するように感じます。

私たちは、単なる宇宙の観察者ではなく、宇宙の創造者であるということ。

あなたがいるからこの世界(宇宙)はあるのだということを量子論は示しているように見えます。

そして、著者は「電子が心を持っているから、人間も心を持っているのである」とはっきり言っている。

電子というのは素粒子のひとつで、原子レベルで見ると原子核の周りをぐるぐる回っているものと一般的には言われています。

その電子の動き方は不確定原理によって、位置と速度を同時に確定することができないので、ぐるぐる回っているというよりもなにかわからない雲のようなものとして原子核を覆っているイメージだそうです。

なので、電子というのは、なにか不確定的に動く雲のようなものという感じですね。

私たちの体も原子核や電子で出来ているわけなので、我々はそれらの運動がマクロに現れ出たものと言えます。

その電子が心を持っているとはどういうことなのか?

著者は、「心=干渉性」だと言います。

心というものは、何か実体のないエネルギーの動きであって、エネルギー同士の干渉によってこの世界に現れて知覚されるものである。

電子が心を持っていることの実験的根拠として

1.電子の粒子性と波動性の理論
2. 〃 状態の保存性の理論
3. 〃 波束の収縮性の理論
4. 〃 不確定性原理

という4つの理論がすでに実験によって示されているそうです。

また、著者ははっきりと言います。

「神の心の正体がこの世に姿を表したのが、外ならぬ電子の量子性である」

量子とは、物質の最小単位であって、粒子としても波としても不確定的に現れる性質のもの。

真空のエネルギー宇宙は、何もない空間ではなく量子レベルのエネルギーが生滅しながらゆらいでいて、それによって万物の素の素粒子が生まれたり消えたりしている。

これは、無はすべてであるということを言っていますね

形あるものは無から生まれ、また無に還る。色即是空。

また、著者は言います。

「量子論は生の世界のこの世があるかぎり死後の世界のあの世があることの「相補性原理」を科学的に立証した」

これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する
「量子エンタングルメント」(あの世とこの世の共存性)や
「量子テレポーテーション」(あの世とこの世の情報交換)
などの心の共鳴現象の理解が必要になる。

このあたりは、マントラや引寄せの法則に通じますね。

著者が言う「この世」とは現れ出た世界、「あの世」とはまだ現れ出ていない世界のことです。

死んであの世に行くとは、まだ現れていない世界に戻ること。

極めつけは、最後のほうに出てくる次の言葉です。

「生の目的は死である」

死を目的に喜んで死を受容し、よりよく生きることこそが生の目的であり、それを手助けするのが宗教である。

量子論を追求していくと、なぜか宗教にたどり着くんだよね。

スピ系オタクとしては、生きる勇気をもらえる本でした。

太母さん大師

あはは。笑っちゃったんだけど、勘違いしてた。

ずーっと、OSHOは59歳で肉体を離れたと思ってて、今年59歳になった自分はついにOSHOのこの世年齢を超えるのだ!

これは、この世的、あの世的、宇宙的かつ個人的に記念すべきことなのである!

なーんて思って、せっせとOSHO瞑想に励んでたんだけど、よく考えたら、

OSHOは1931年12月11日生まれの1990年1月19日没で、1990年にはまだ誕生日来てないわけだから1990-1931-1=58歳で亡くなってたんだよねー。

ちゅうことは、すでに1年前にOSHO年齢を超えてたってことなのよー(笑)

アホみたいだけど、しおらしくていいかもね。

何事もなかったかのようにOSHO年齢を超えられたのだから。

あとは、やりたいことやって、死ぬまで生きるさ。

Love you. OSHO

OSHOとは別の話だけど、

1990年頃、太母(たも)さんに会ったことがある。

太母さんは、OSHOが亡くなる少し前、彼の体調が悪かった頃に、OSHOにパワーを与えたいということでインドのOSHOコミューンを訪問しました。

そこで、太母さんはエンライトメントした(悟りを得た)人として紹介され、OSHOから花が降り注がれました。

って、当時サニヤシンの間で話題になったことがあった。

その太母さんが、熊本の天草を訪問するという機会があり、何人かで会いに行ったことがある。

天草で見た太母さんは、その時すでに80歳を超えてたと思うけど、ボクには「永遠の少女」のように見えた。

彼女が前を通るとき、ボクは胸の前で手を合わせてちょこんと挨拶をした。

太母さんもこっちを見たんだけど、その時、彼女からすごい気が出ていて、それに圧倒されてボクは動けなくなってしまった。

動けなくなったボクに近寄ってきて彼女が手をとると、目を閉じた視界がオレンジ色に照らされて、光がパチッパチッと鳴った。

という、たぶん数分間の経験がある。

その時に何かが受け渡されて、今でもずーっと残っている。

言葉ではない「それ」の受け渡しってやっぱりあるんだよね。

そのことをOSHOは「コミュニオン」という言葉で表現してました。

太母さんは「黎明」でも大師として紹介されています。

大師とは、この世で悟りを得た後に肉体を離れ、あの世からこの世の人々を導く波動の高い霊のこと。

OSHO、太母さん、キリスト、ブッダ、クリシュナ、、、他、名前も知られずに逝った悟りの霊たち。

キリスト教では、彼らのことを「聖霊」と呼ぶようです。

この聖なる霊たちは、いつも私たちのそばにいて

ドアをノックして、コミュニオンしてくるんだよねー。

ノックの音を聞き逃さないように・・・


菊池霊鷲 (太母さん)の世界⇒ http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-1.htm