「非二元」カテゴリーアーカイブ

非二元はない

ここ2年ほど、非二元にハマってました。
探求してわかったことをまとめてみたいと思います。

非二元(ノンデュアリティ)のメッセージ、
「全体は一つのエネルギーの表現で、私はいない」
というのは、真実だと思います。

自分の中のどこを探しても、私と呼べるようなものは見つからない。あるのは、名前無しで、むき出しの命。それは私じゃない。

私とは、人間に付随するマインドシステムによって分離して
認識された実体のない概念。だから実際にあるものではない。

だけど、これは半面の真実なんじゃないかと最近は思ってます。

私と世界という二元の現象界では、それぞれ別々の体が現れ、別々の目でものを見る。

そして、その私は別々に考え、別々の思いを持ち、別々に行動しています。

そもそも私がいないと、二元では世界自体が存在できない。
なぜなら、私が見ている世界が二元のこの現象界だから。

二元では、私の数だけ世界がある。

この二元の世界も真実の半面で、否定することもないのでは?
って思います。

これはこれで、存在から現れ出たエネルギー。
素晴らしい存在からの贈り物。

色即是空 空即是色

空の現れが、色であるこの二元世界なんだから、
二元(色)も非二元(空)も本来同じものだと思うのです。

それから、これは最初からの疑問だったのだけど、
われわれが言っている二元とか非二元というものは、
「世界の見方」に過ぎないのではないか?と思うのです。

人は自分の世界を創造することができるので、
私がいると思って世界を見れば二元の世界を創り上げ、
私がいないと思えば非二元の世界さえも創造してしまいます。

その創造も二元の世界でやってるわけなので、
結局は二元の世界のなかでぐるぐる回っているだけ。

非二元の「二元ぐるぐるストーリー化」でしかない。

笑ってしまうのだけど、

この2年間、非二元を探求してたどり着いたのは
「非二元なんてない」ってこと。

二元とか非二元とか言った時点で、それは概念化され、
それそのものではなくなる。

私がいるとかいないとか。

そんな概念的なことはどうでもいいわけで、

ただ、あるがままにある。

それしか真実はないわけで・・・

結局、考えてもどうしようもなくなる。

すべてをあきらめて、探求さえもあきらめて、

・・・何もしない、

すると、そこにあるのがそれだった。

探求すればするほど見つからない、

非二元の探求って、そんな笑えるお話なんですよね。

宇宙からの視点2

えらいこっちゃ!!

宇宙からの視点を使うと、
ほとんどのことが解決することがわかった!

宇宙から地球を見ている画像を思い浮かべてください。

この中にあなたはいますか??見つからないでしょ?

「私はいない」が解けちゃった(笑)(笑)(笑)

もしいたとしてもほんのちっちゃい細胞のかけらレベル。

そんなものがあれこれと悩んじゃってるってのが
すでに可笑しいよ。

北朝鮮の金さんがアメリカまでロケット砲飛ばす言うてるけど、あほやん。

自分で自分を痛めつけてどうするん?全部が自分なんやで。

菜穂ちゃんの、あの有名なトラック運転手の話(苦しみはナチュラルじゃない P.109)

—-<菜穂は言った はじめ>————

例えば、九時にA地点を出発して、十時にB地点にたどり着いたとします。この場合、出発から到着までに「1時間」という時間がかかっていますしこの時間があるからこそ、AからBにたどり着けるわけです。でもこの男性曰く「出発したA地点と、たどり着いたB地点は、同時に起きている」

—-<菜穂は言った ここまで>————

A地点とB地点は同時に起きている。
これも宇宙から見たらあたりまえに分かります。
日本とフランスも同時に起きていますよね。

日本とフランスには時差があるというけど、ちがうよ。
日本とフランスは今、同時に存在してますよ。

時間というのは、地球が一周するのを1日で24時間やと決めただけの話であって実際には存在しないというのが宇宙から見てるとわかります。

よくある「起きていて起きていない」というフレーズについても、この宇宙から眺めた地球の中では無数のいろんなことが起きているんだけど、画像の地球の姿には何も起きていない。

あーっ、今またピーンてきたけど

この「宇宙からの視点」は「本当の自分」のことやったんやー!て来たよ!!

えっと、今PCかスマホでこの記事を見ていますね。

この記事を見ている自分っていうのは認識できますか?

自分がこの記事を見ていることを認識できますよね。

っってことは、

自分以外の誰かが記事を見ている自分を認識している。

ということです。

(ちょっと、ややこしいけど)

その自分以外の誰かっていうのが
「本当の自分」だと言ってきたのです。

その「本当の自分」は宇宙大で
いつもすべてに気づいて全てを見ている。

菜穂ちゃんの言う愛っていうのは
これのことやったんやー(涙)て来たよ。

(何故って言われると困るけど)

Love.

宇宙からの視点

ずーっとわからなかったことがわかりかけてるかも?
なので書いてみます。

去年、太光寺のサットサンで質問したことなのだけど
その時100人くらいの人が集まって菜穂ちゃんの話を
聞いていたのです。

その場で起こっていたことは、
100人が菜穂ちゃんを見て感じていたということだけど
人はそれぞれが周りの世界を感じて自分の世界を創造するので、
そこには100人の菜穂ちゃんがいたということになります。

でも、普通には菜穂ちゃんは一人ですよね。他にはいない。

菜穂ちゃんは、1人なの?100人なの?ってことなんだけど

こんなことで悩むのも変なオッサンだと思うけど、
昨日ちょっと気づいたのは、

100人の菜穂ちゃんがいると主張するケースは、
100人の「私」がそれぞれの菜穂ちゃん像を創り出している
ということなので、これは二元の視点なんだな~と思いました。

それに対して、

菜穂ちゃんは1人であると主張するケースは、
「私」ではなくてもっと広いところ、
例えば空から地上を眺めて見たときに

「あー、あそこに菜穂ちゃんがいる。
あら今おフランス~ヤッホ~♪」みたいな感じではないかと。

言ってみれば、これは
非二元的視点とか宇宙からの視点とか
言えるかもしれません。

これに関連して、今までよくわからなかったこと、

例えばよく「ただ起きている」っていうけど、その
「起きていること」ってどの範囲で起きていることよ?
自分の目の前で起きていること?
それとも世界中で起きていること?
って思ってたんだけど、

これも宇宙から地球を眺める感じでとらえれば
全体で起きてることだってわかりやすいし、そもそもの

「全体はひとつのエネルギーで分離してない」ってのも
宇宙から眺める感じでイメージするとわかりやすい!

宇宙から眺めるとわかる!
これは、塩的には大きな発見でした!

今日は、じゃあ二元とか非二元とかいうのは

「見る視点」のことかい?とか
絶対的な真実はなんなの?とか

またぞろ次なる疑問がわいてきて
ぐるぐるしだすんだけど、

ま、ちょっとコーヒーでも飲んで
「ただあること」に戻りまーす。

Love

本当の自分

本当の自分とはなんだろう?

アホみたいにも思えるが、ま、ヒマなので考えてみた。

例えば、「昨日、私は山登りをした」と言ったときの私は私ではない。

なぜなら、私と言った瞬間にその私は対象物になってしまって
もう自分自身ではないからです。

主体と客体、見る側と見られる側でいうと私は「見る主体」なんだけど、それを私と呼んだ瞬間に見られる客体になってしまう。

「昨日、私は山登りをした」という表現は、「山登りをした私」を客体として、客観的に眺めて言っているのです。

だから、その私は私ではない。

私(自分)は常に見る側で、私(自分)以外のものは
常に見られる側です。

山、川、道路、自動車、机、パソコンなど
自分以外のものには何でも名前を付けて呼べるけど、
自分自身については呼ぶ主体だから呼びようがない。

呼んだ瞬間に客体になってしまう。

自分の体、心、頭、目、耳、鼻、口、、、
これらも名前を付けて呼べるので自分自身ではない。

多分、自分の体や心のことを自分だと思っている場合が多いと思うけど、これらは客体なので自分自身ではない。

本当の自分とは、自分の体や心を見ている者、「認識する主体」のことです。

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では、本当の自分である「認識する主体」とはなんだろう?

ここまできて言うのもなんだけど、
実は自分というものはないのです(笑)

自分という字は「自らを分ける」と書くけど、もともとひとつである全体から勝手に自分というものを分離してあると思っているだけの話です。

無我(我はない)というのが本来の姿。
般若心経や非二元ではそのようにとらえます

なので、それはもう自分とは呼べないもの。
個人から全体へとシフトしたもの。

本来、名前は付けられないんだけど、
よく意識とか気づきとか存在とか呼ばれるものです。

それはあらゆるところにあるのだけれど、
形としては存在せず眼には見えないので、
ここにあるとか、あそこにあるとか言えない。

だけど、確かにある。

それがあるから世界は認識可能で存在できている。

それは、無と言ってもいいかもしれません。無だけどあるもの。

色即是空 ~形あるものはすべて無から生じてくる~

100年前にはあなたはいなかったし、100年後にもあなたはいない。

つまり、100年前にはあなたは無だったし必ずまた無に還る。

あなたとは、無から立ち現われた一時的な現象に過ぎない。

だけど、本当のあなたであるそれはずっとあり続ける

それは、あることそれ自体、命そのものだから。

本当の自分を知るためにやることは、たったひとつ。

ジタバタせずに、それに明け渡すだけ。

ノープロブレム。心配いらないよね。

もともといたところに還るだけだから。

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うーん、いろいろとハズしてると思うけど・・・

今日はそんな気がした。

らくちんこどこ?

らくちんこ道じゅんころさんを最初に知ったのは、2015年夏ごろでした。

YouTubeでたまたま見かけたのですが、最初はまた変なおばさんが出てきてるなぁ(失礼)って思ったのだけど

しゃべってる内容をよく聞いてみると、もしかしたらこの人は本物じゃね?って感じました。

非二元の話をする人もいろんな人が出てきてるけど、大和田菜穂ちゃんとじゅんころさんは本物(シフトしてるって意味で)だと感じます。

特にじゅんころさんのこのビデオはサイコー!(*^。^*)!

あるということについて、できる限りの説明をしてくれているし、

 悟りなんてないし~、
 目覚めもないし~、
 これがあるだけやん! って

完全にぶった切ってくれます。気持ちよかー

確かに、

悟りとか目覚めとかいうものがあるわけじゃない!

それただの言葉じゃん。

目の前にあるこれ(あること)があるだけだよね。

このビデオもう100回以上見てるけど、見るたんびに気づくことがある。

そして、

これの中のじゅんころはなぜか美しい!

なんかオーラ出てる。

今は亡きテディさんとの絡みも Good!です。

そんなじゅんころさんなんだけど、なぜか今年の春頃にFacebookのらくちんこ道を閉じてしまい、まったく姿を消してしまいました。

今はコンタクトの取りようがない状態。

まだ、彼女とは直接に会ったことなくて、チンメソもやったことない塩ちんことしては残念の極みでございます。

じゅんころに今何が起こっているのだろうか?

復活を望みま酢~ (/・ω・)/

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2018.7.2 追記

やっと、じゅんころさんと連絡が取れまして・・・

とりあえず、元気であることが確認されました!!

今はシンプルなコレのギャザだそうです(笑)

ここでは詳細は言えませんが、流れが起きてきたら

生じゅんころに会える日が来るかも。

楽しみっだ酢~(∩´∀`)∩

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じゅんころ 完全復活 バンザーイ!

2019年9月より、らくちんこ道じゅんころさんは、JunCoroとして復活されました~~~

JunCoro Official Facebookページ

もうすでに、大阪や東京では「ギャザリング」と称して何かが始まっているようです。

なんか、じゅんころさん。やる気に満ちてる感じ。

ええやん、ええやん、ええことやん。

九州にも近いうちに上陸されるようなので、しおもその「ギャザ」ってやつを初体験できそうです。

うっほほーい。うっほほーい。

お会いするのが、楽しみで酢~~~

Love. JunCoro

サイレント

サイレントとは、沈黙、静寂、無・・・

よく菜穂ちゃんを通して現れるあれ

サイレントは菜穂の本質、菜穂がサイレント。

っていうか、すべての本質、すべての基盤。

すべての始まりの始まり、源の源がサイレント。

そこから音が現れ、光が現れ、形が現れ、全てが現れる。

サイレントがあるから、

サイレント以外の全てがあることができる。

無は無と言った瞬間に無ではなくなり、

愛は愛と言った瞬間に愛ではなくなる。

だけど、サイレントは不変。永遠そのもの。

サイレントについては、何も言えない。議論なし。

サイレントであることしかできない。

サイレントこそがあるということ。

サイレントが菜穂の言うライフ?

菜穂は、サイレント製造器。

彼方からやってきた不思議なブッダ。

ブッダとは、サイレントを生み出す人のこと

非二元のメッセージは、結局のところ

マインドをわきに置いて、サイレントに還れってこと。

そこは、ひとつの世界。すべて。

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Love Love Love☆

ブッダの見分け方

よく悟った人のことをブッダと言いますね。

たぶん、
お釈迦様がゴータマ・ブッダと呼ばれていたことが由来で、悟った人のことをブッダと呼ぶようになったのではないかと思います。

ボクの中では、ブッダと言って思い浮かぶのは、
お釈迦様をはじめとして、キリスト、老子、荘子、
ボーディダルマ、一休和尚、白隠和尚、OSHO、
クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシ、太母さん・・・

悟った人というのは、たくさんいたんだろうけど、ボクが本とか
読んで、ブッダとして認識してるのは上のような人たちです。

でも、この人たちは今はもうこの世に肉体がありません。

じゃあ、肉体を持ったブッダというのは今いるのだろうか?

たまたまYouTubeでエックハルト・トールのビデオに出会って
もしかしてこの人ブッダ?って思ったのがきっかけで、その後は

阿部敏郎さんのブロク → 菜穂ちゃん → トニー・パーソンズ

という流れで、いわゆるブッダ(悟った人、解放された人)って
世界中にいるじゃん!という認識になってます。

ここで、用語を確認しておきます。(あくまで塩の定義)

悟り=私がいなくなった状態
解放=私がいなくなった状態がずっと続いている
ブッダ=私がいなくなった状態がずっと続いている人

広島の太光寺で菜穂ちゃんと堀澤祖門さんのコラボがあった時
祖門さんにブッダかどうかを見分ける方法がありますか?
って質問したとき「ない」って言われてそうかーって思ったけど
やっぱ見分けないとまずくね?と思ってジタバタ考えてみました。

(あくまで塩の見分け方)

普通、何かを見るときには主体と客体が発生します。

見る者と見られる者。

見る主体が自分で、見られる客体が周りの世界。

いつも「自分が」他の何かを見ることをしているわけです。

ところが、
ブッダには自分がないので、主体と客体が発生しません。

見る者が見られる者であり、見られる者が見る者である状態、

そこには、見る者も見られる者もない。

ただ「見ること」が起こっている状態。

そのただ見ることが起こっている状態のときに

「あることがあるだけ」というのが明らかになり

例の「時間も距離も空間もない」がわかると思うわけです。

なので、ブッダとノンブッダの見分け方のまとめとしては

結局、「目を見ればわかる」ということになります。

何か対象を見ている目はノンブッダ

ブッダの目は、何かの対象を見ている目ではない、

見ることが起こっている目  ←どんな目やねん(笑)

見ていて見ていない目、空っぽの目。

そんな目の持ち主がブッダなのです(塩的には)

で、菜穂ちゃんの目は、

まさしくブッダの目なんよね(塩的には)

狂気と覚醒

例えば

「私は神だ!、私は神だ!、私は神だ!」

と大きな声で叫びながら道を歩いたら、
病院送りかタイーホされるかだよね。

「私は神だ」という言葉には真実が含まれると思うけど、
世間ではそれを言うと狂った人だとみなされます。

同様に

「私はいない、私はいない、私はいない」

といいながら歩いていたら、世間では
やっぱクレイジーなヤツだと見なされますね。

非二元の「私はいない」「時間はない」「距離も空間もない」ていうメッセージは世間から見ると十分にクレイジーですよね。

なぜなら、世間では「私はいる」「時間も距離も空間もある」と思っているので、反対の関係になってしまっているわけですね。

世間から非二元を見ると狂気に見えるし、
非二元から世間を見ても狂気に見える。

どっちもこっちが正しいと思っている。

何でこうなっちゃってるんだろ?

最近、この問題解決するのどうしたらいいかでぐるぐるしてたんだけど、ボクの答えとしては非二元を押さえたうえで世間では私を演じて生きるというやり方でした。

だけど、それやってると自分が何なのかわけがわからなくなって、オレって何かおかしくね?ってなります。

OSHOは、勇気をもって狂気か覚醒か究極の地点に行きなさいと言いました。

白隠和尚のお墓のまわりには、
たくさんの若い修行僧のお墓があるそうです。

この人たちは修行中に狂気か覚醒かの地点に行って
狂って死んじゃったんじゃね?ってビビります。

だけど、菜穂ちゃんはいつも究極のメッセージを言い放ち、
ケロッとしてます。狂った様子もありません。

しかも、カワイーキレイー。なぜ?

多分だけど・・・

菜穂ちゃんは、「私はいない」とか「時間も距離も空間もない」ということを信じてるわけじゃないんだよね。
ただ、そうなだけ。

もう「私はいる」も「私はいない」もどっちでもいい。

「時間も距離も空間も」あろうがなかろうがどっちでもいい。

ただ、あるようにあるだけ。

何かを信じることが狂気でただあるだけが覚醒なんだよね。

シフト地獄グルグル

また、ぐるぐるアホ話ですけど、

非二元でよく出てくるシフトってヤツについて、
ぐるぐるしてみました。

どうも、そのシフトってヤツが起こると、

解放、解脱、悟り、サマーディ、ニルバーナ
とかって言われるすばらしい世界が待ってるらしい。

これを求めて、はや三十有余年。

瞑想とかもう一万回くらいやった(数えてないけど)

やるときは、気持ちよくてすばらしい時もあるけど
シフトは起こらない。シフトとは関係ない。

「瞑想一万回やったらシフトする」って決まってれば
良かったのにねぇ~。

そうはなってなかった。ボクが証拠(笑)

シフトがしたい、したい、したい!!

もう残りの人生、シフトしてから死にたいだけ。

地位も名誉もお金もいらない(もともとないけど 笑)

シフトだけがほしい、ほしい、ほしい!!

OSHOは
「あなたの準備が整うのを、それはいつも待っている」

エックハルト・トールは
「それは、神の恩寵として起こる」

菜穂ちゃんは
「それって、エネルギー的なこと あははっ!」

と言っている。

あ~っ、わからん!わけが、わからん!!

万策つきた。

っていうか、策そのものがない。

1.じゃあ、どうすればいいの?

2.することじゃないから、どうもする必要ないよ。

3.じゃあ、何もしなければいいの?

4.そう何もしなければいいの。あるがままよ。

5.じゃあ、あるがままってどうやってやるの?

→1へ戻って、無限シフト地獄グルグルへ

これを抜け出すにはどうしたらいいのか?

ココのメンバーのカキコとか見てるとどうもこういう事みたい。(間違ってたら指摘してね)

もともと個人はいなくて全体しかないわけだから、
当然、個人はシフトしないわけで、言ってみれば
全体が全体をシフトしてることになる。

つまり、シフトって全体の一人遊びのようなもの。

全体が、自分自身を見つけて喜んでるような
何かのゲームのようなもの。

さらに、起きることしか起きないわけだから

いつ、どこで、だれに起こるかなんてわからない。

なので、自分がシフトしたいって言ってること自体が
ありえないアホな話なので、アホもたいがいにせえよ
塩ちゃんちゃんというオチで終わる。

そう考えると、シフトを人生賭けて求めてきたんだけど
もうどうでもよくなってしまうんだよね。

・・・

もしかしたら、「シフトって無かったんだ」って気づく
ことがシフトなのかもしれんて最近思ったりするのです。

 

二元と非二元

そもそものお話なんですが、
二元と非二元の関係はどうなっているのか?

ボクは般若心経の「色即是空、空即是色」になぞらえて、
「色が二元で、空が非二元」ととらえていた。

菜穂ちゃん語で言えば、色がストーリーで
空がライフになるのかな?

ん、空がライフてのはちょっとちがうかも?

まぁ流して、先へ行きます。ゴメンナサイ。

二元は非二元であり、非二元は二元である

ということは、どちらも同じもの。

ボクのイメージとしては、
コインの片面が二元でもう片面が非二元。

でも、どちらも同じコインなんだよねって感じ。

なので、二元も非二元もどっちも有る。
現象界も非現象界もどちらも大事。

つまり、「私はいる」も「私はいない」も
どちらもホントというスタンスだった。

そのことを、この前の福岡サットサンで菜穂ちゃんに言ったら、別に怒られなかったのであら良かったーと思っていた。

だけど、菜穂ちゃんに会ったあと少し変わってきた。

別になんか言われたわけじゃないんだけど..

うまく表現できないんだけど、
非二元のほうがより本質的、根源的な感じなので
ピラミッドみたいな感じじゃねかな~

でも、やっぱりしっくりこないなぁ~

それで、たどり着いたのが非二元が海で
二元が海中の生物たちというイメージ。

やっほー。これよくね?

皆さんどんなん思われますー?
いろいろ聞いてみたいー

と、ここまで書いて気づいたんだけど、

今言ってること全部、思考で概念でストーリーだよね。

なので、ホントは全部マチガイ。あははー(笑)

また、くるくる回ってしまいました。

でも、ストーリーも遊びだと気づいていれば
深刻にはならないよね。