あの世とこの世

今日は、 あの世とこの世について考えてみた。

まずこの世というのは、今私たちがいるこの3次元世界のこと。

物質があり、空間があり、時間がある世界。

では、あの世というのはなんだろう?

あの世というのは、この3次元世界が現れる基になっている世界のこと。

今あるすべての源泉、 根本の世界のこと。

どんな大きな植物も、もとはといえば小さな種が変化して育っているように、この3次元世界も基になっている何かが必ずあるはずだよね。

岸根卓郎先生が、あの世とこの世を氷山に例えてわかりやすく説明されていた。

この図では、ずばり氷山がこの世で海があの世だと示しています。

氷山というのは海に浮かんでいる氷のことだけど、水面より上の氷部分は固体であり、水面より下は水と溶け合いながら液体である海とつながっている。

氷山も海も、基は同じ水なんだけど温度の変化によって液体⇔固体と姿を変える。

同様に、あの世とこの世も同じものが姿を変えたものだということです。

般若心経で言えば、色即是空の「色がこの世」で「空があの世」となります。

そして、あの世とこの世の境目でこの二つの世界の橋渡し役として活躍してるのが素粒子たちです。

素粒子たちの消えたり現れたりする運動によってこの世界は全て創られていて、もし素粒子がなかったとしたらこの世界もない。

だから、素粒子たちの運動は神の意志がこの世で表現されたものと言えます。

素粒子こそがあの世とこの世をつなぐ神の使いなのです。

よく死んだらあの世に行くというけど、そのことをこの図で言えば、氷として固まっていたものが、素粒子の運動の変化によって海に溶けていくということになる。

もともと海だったものが一時的に固まって氷山になったものがこの世であり、この世で存在していたものは必ず源泉であるあの世に還るということ。

今この世にいる我々もみんな全員、あの世に還るという法則があるのです。

だから、源泉である「あの世」を知ることが、この世での探究の重要テーマになるわけです。

では、そのあの世というのは具体的には何なのか?

これは私の直感だけど、あの世とは「無」のことだと思っています。

一般には「無」とは何もないということだけど、何もないということはすべてであるともいえるのです。

何故なら、この宇宙全体も始まりは無がゆらいでビッグバンが起こってできたのだと言われています。

私たち人間もそれぞれが誕生する以前は何もない無だったわけだし、身の回りの他のものもすべてそうです。

この世界のすべてのものは無から発生していると言えます。

ならば、大本の無には今あるすべてが含まれていたはずです。

そして面白いのは、数の流れでみると

・・・ +2,+1,0,-1,-2 ・・・

何もない 0(無) の先には符号が反転した1,2・・・がある。

無とは何もないということだけれど、その先には反転したすべてがあるといえるのではないでしょうか?

こういうことを見てみると、この世が終わって無に還った私たちは、反転した世界であるあの世に移るのだと思います。

さて、そのあの世とはいったいどのようなところなのだろうか?

時間もなく、空間もなく、全てがあるという高次な世界とは・・・

(次回に続く)

SOSを超えて

今年の入学式の祝辞で、在校生代表のS君が面白いことを言っていた。

彼が言ったのは「今ネットでSOSが流行ってる」ってこと。

SOSとは、そう.思えば.そうなる.ということらしい。

S → そう
O → 思えば
S → そうなる

これはまさに「世界はあなたが創造している」ということ。
あなたが「そう思えばそうなんです!」ってことですね。

幸せな人とは、自分は幸せだと思ってる人のこと。
不幸な人とは、自分は不幸だと思ってる人のこと。

やっぱり「そう思う」ということが「そうだ」ということだ。

これは、これまで探究してきた一つの結論だし・・・
量子論でもそう言ってるし・・・

こういうのが、若い人の間で流行ってるなんてすばらしい!
やっぱ新しい人たちの意識は進化してるんですねー

と思って、ネットでSOSを検索してみたら、山川紘矢さんのブログ が出てきた。

山川紘矢さんのブログ

あー、なるほど。仕掛け人は山川さんだったのですね。
山川夫妻はスピ界の大御所で、OSHO本のJOYやCourageを翻訳した方です。
何年か前にホオポノポノとか流行りましたね。

また「世界はあなたが創造する」ということに関して
奥深いメッセージを出してる人が津留晃一さんです。

津留晃一の世界

津留晃一の世界(Facebookページ)

facebookで津留さんの投稿をフォローしてるんだけど、彼のメッセージはハートにビンビンくるので、送ってくるのが楽しみです

彼は、コンピュータ関係のエンジニアだったそうですが、事業に失敗して体を壊しながらも探究を続けて、たどり着いたのが「我々は創造主である」ということ。

津留さんは、もうだいぶ前に亡くなっているのですが、彼が生きた時代よりもかなり先に意識が進化してた人だったようです。

引き寄せの法則、マントラ、 SOS 、etc・・・

これらは「あなたは世界の創造主である」ことをこの世で表現させるツールだと思います。

たしかに、これらには「人生を変える」パワーがある、

より良き人生を送りたい人は、どんどんやってみたらいい、

真理の探究としても新しい発見が出てくると思います。

だけれども、まだ「そう思う自分」がいるんだよね。

「私がそう思うと私の世界が変わる」という話なので、

まだ、主体と客体があり究極のものではないと思う。

それに対して・・・

非二元や禅は、「そう思う自分」に気づくところから始まる。

「そう思えばそうなる」と思っている自分に気づくと、

主体と客体を超えた「在るそのもの」にジャンプする。

7つの身体で言うと、肉体→エーテル体→アストラル体→メンタル体までがSOSが関わる領域で、

非二元や禅はそれから先のマインドを超えた領域に関わってると思います。

非二元では「人生なんてないから~」とか言っちゃうからね(笑)

禅でも、「生きるも死ぬもありゃあせん」今ここしかないから。

非二元の覚者は早死にする人が多いという話があるけど、

生きるも死ぬもないんだから当然そうなるのでしょう。

だから、これらはちょっと別ものだと思うんだよねー。

片や、ヌーソロジーや量子論など知力を使って意識を進化させようとするものもある。

ヌーソロジーでは5次元までのイデアを提示して世界の見方を変えようとする。

最新の量子論では、9次元までのモデルもあるようです。

これらは、3次元を超えた高次元から世界を見ることで意識を進化させようとします。

言ってみれば、SMS「そう見ればそうなる」ってことね。

まあねー、スピリチュアルな探究には、いろんな道があるけど、

究極は「在るそのものがある」これは変わりようがない気がするなぁ~。

怪奇現象2

最近、私の周りでは怪奇な現象がよく現れる。

私は、Facebook派でLineはあまり使わないのであるが、5日ほど前にスマホにLineのお知らせマークが付いていた。

line02

あれ、めずらしいな~と思って見てみると川田先生(仮名)という表示が出てきた。

クリックして開けてみたが、メッセージは何も書かれていない。

川田先生?うーんと誰だっけ。Lineで友達になった覚えがない。

川田先生という名前には、高校時代の担任の先生しか思い当たらないが、その先生は昨年亡くなっている。

何なんだろうなぁ~。Lineの仕組みはよくわからん。

と思いながらそのままにしていた。

それから3日ほど経って・・・

またLineのお知らせマークが付いていたので見てみると、今度は山野美代子(仮名)と表示されていた。

それを見て私は、えっ?!となった。

なぜなら、山野美代子さんは私の友人の妹さんでもう5年ほど前に亡くなっていたからだ。

私は大きく息を吸い、はーーっ、いったいこれは~

どういうことなのだろうか?

 

ちょっと冷静になって、事実を確認してみる。

亡くなった人から無言のメッセージが2通続けて来た。

これは、純然たる事実である。

 

以前の私なら、ここで「わっ、こわっ!」とかなってビビるところであるが、

今の私はだいぶ進歩したのか「こわい」という感情は湧いてこない。

むしろ、ウェルカムである。うほほほ。

川田先生と山野美代子さんに会って今どうしているのか話をしてみたい。

あの世はどんなところで、こっちとどっちが楽しいのか聞いてみたい。

どのみち私もそっちへ行くのだから、前調査としてちょうどいいじゃんくらいの感覚である。

量子論的に言えば、今回の現象は量子テレポーテーションにあたるから別に不思議じゃないのよ。

 

私はもうすでにあの世があることを前提に生きてるのかも知れない。

この世という言い方自体が、この世以外の世界(あの世)があることを示している。

実際のところ、あの世があるから、この世もあるんだよね。

人は、あの世でもこの世でも、同じことやるんじゃないかな。

今この世にいる人は、死んだら全員あの世に行くわけだから、あの世も同じメンバーだよね。

だったら、この世と何も変わらないはずだ。

いい人もいれば悪い人もいるだろう。

いいことも起これば、悪いことも起こるだろう。

どっちもいい波動と悪い波動で表現されたものだから。

ホントは波動にいいも悪いもないんだけど、人のマインドはそう見るからね。

 

この世とあの世をトータルに見れば、

怪奇現象って全然怪奇じゃないから怖がる必要は全くないよ。

あの世のことをもっともっと知りたいなぁ~

怪奇現象

昨日の夕方のことである。

そろそろ終業の時間になってきたので、一服しに喫煙室に行ったとき、心理学科の学生U君が震える声で私に話しかけてきた。

U君は窓際を指差しあそこに変なタバコがあるというのである。

ん?喫煙室だからタバコがあっても普通やん思て窓際を見ると確かにタバコの箱がずらずら並んでいた。

それぞれをよくみると、かなり古いものらしく外箱はよれよれになっていて賞味期限が切れて2,3年たったもののようである。

数えると全部で10箱あった。

ラーク、メビウス、セブンスター、わかば、スピリット、マルボロなどなど・・・全部異なる種類のものである。

わざわざ種類の異なるものを10箱揃えて置いてあるというのも珍しいことではあるなぁ思いつつラークの箱を開けて私は軽く衝撃を受けることになった。

なぜなら、ラークの中にはラークではないバラバラな種類のタバコが20本きちんと詰められているのである!!

えっ、なぜ?なぜなぜ?

なぜバラバラなんが入れてあるの?

なぜ、そんなことする必要があるの?

U君によれば、この窓際タバコ群は午前9時半頃に発見したとのこと。

であれば、前日の夜もしくは当日の朝早くにこの場所に置かれたことになる。

いったい誰が?

なんの目的で??

ここにこのようなものを

置いたのであろうか?

犯人は今どこで何をしているのだろうか?

謎は深まるばかりであった。。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

それから、1日が経過して、

私は思うのであるが・・・

いや失礼な話かもしれぬが、

これは、もしかして、

私は・・・この私は?

もしかして?

 

U君にからかわれた?

 

ということなのであろうか。

????

すべてが謎のままである。

重なった世界

「シュレーディンガーの猫」という思考実験があります。

どういう実験かというと・・・

まず箱の中に猫を一匹入れる。

その後、放射性物質と毒ガス発生装置を箱に入れてフタをする。

箱の中で放射性物質が原子核崩壊を起こせば、毒ガスが発生する仕掛けになっています。

毒ガスが発生すれば猫は死にますね。

さて1時間後、猫の様子はどうなっているのか?

猫の生死はフタを開ければわかります。

生きているか、死んでいるかのどちらかです。

では、フタを開ける前のネコは・・・

生きているのか?死んでいるのか?

量子論では、それどっちもだよ。

生きてて死んでる猫がいるんだよと言います。

箱の中では、生きた猫と死んだ猫が重ね合わさった状態になっていて、

誰かが観察した瞬間に波束の収縮が起こり猫の生死が決定する(コペンハーゲン解釈)というのです。

えっ? 死んでて生きてる猫なんてありえん。

死んでるか生きてるかのどっちかやろって普通は思いますよね。

だけど、量子論では生死が重なった状態は普通にあり得ることで、

最近話題になっている量子コンピュータもこの重ね合わせの原理を応用しているのです。

在りし日のコジロー

さらに、多世界解釈(パラレルワールド)というぶっ飛んだ解釈もあります。

フタを開けた瞬間に世界が二つに分かれて、猫が生きている世界と猫が死んでいる世界に分かれるというのです。

えーーっ、そんなことは信じられなーい!と普通は思いますね。

我々が、そんなの信じられなーい!と思うのは、その二つの世界はお互いに他方を知ることができないからです。

猫が生きている世界にいる観察者は、猫が死んでいる世界を知ることはできず、

猫が死んでいる世界にいる観察者は、猫が生きている世界を知ることはできない。

なので、他方の世界があるとは信じられなーい!ということです。

量子論で言っていることが、トンデモ話に思えたり、バカっぽく見えたりするのは、量子論の解明事象が現在の人間意識より進歩した先のものだからです。

エヴェレットの多世界解釈(パラレルワールド)は、コペンハーゲン解釈を補完する有力な理論だそうです。

量子論が語る宇宙の在り様は、

宇宙全体は重ね合わさった波動状態になっていて、そこに観察者の意識が関与すると波束の収縮が起こり、ひとつの世界が現れる。

そこに現れる世界は、観察者の意識状態により無数の表現形態をとる。

まさに、今この瞬間にあなたが世界を創造しているということですね。

なんかねー、量子論にハマると世界の見え方が変わってきます。

半田広宣さんのヌーソロジーも私には量子論だと思えます。

量子論もヌーソロジーも人間意識の進化を目指してる。

どっちも難しくてあまりよくわかってないんだけど(笑)

こういうの面白くてやっぱり好きですねー。

量子論と宗教

最近は量子論の本を読んだりしてます。

量子論を楽しむ本
量子論を楽しむ本 佐藤勝彦先生 わかりやすい

 

スピリチュアルな探求には、量子論はハズせないと思う。

自分の場合、スピから量子論に辿り着いて、その共通点の多さに驚いてます。

今回はスピと量子論の共通点を以下にまとめてみます。

 

量子論では、「素粒子は粒子であると同時に波である」と言います。

物質を→分子→原子→素粒子と見ていくと、その先には物と言えるものはなく、粒として現れたり消えたりする運動(波動)がある。

これは般若心経の色即是空とまったく一致する。

色(物)は、即ちこれ、空(無)である。

色が粒子で、空が波にぴったり当てはまる。

般若心経では、この後さらに空即是色と続く。

「色即是空 空即是色」を量子論風に言うと、

「粒即是波 波即是粒」となる。

2千年前に仏教で説かれていたことが、現代科学で正しいと証明された。

2千年前は、科学は発達してなかったけど、瞑想によって般若の知恵と一体化することにより量子の世界を感知していた。

これよく考えるとすごいことだよねー。

この三次元世界の全てのものは、その最小単位の量子レベルで現れたり、消えたりするダンスを踊っている。

我々の肉体、思考、感情も素粒子から成り立っているわけで、今も量子レベルのダンスを踊ってる。

ちょっとそれを感じてみる。量子瞑想(笑)

この世界には、固定されたモノは存在しない。

すべては、波動、ゆらぎ、ダンス。

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岸根卓郎先生の本、何度も驚いた!

また、量子論は人間の意識がこの世界(現実)を創造したり、変えたりすると言います。

先ほどの素粒子が現れたり消えたりする様子をもう少し詳しく説明すると、

素粒子たちは誰も観察していないときには、波として広がっているのだが、人が観察すると「波束の収縮」を起こして粒として現れるそうです。

その現れ方も観察者によって、違った現れ方をする。

これは、一体どういうことだろうか?

人間の意識(観察者)があって初めて世界は現れるということです。

「誰も見ていない月は存在しない」という量子論の有名な言葉があります。

アインシュタインはこれに大反対したそうだけど、真実はこの言葉通りであり、あなたが見ているから月は存在するのです。

月に限らず、今この世界として見えているものすべては、人の意識が創り出している。

実在(万物)は観測されるまでは実在ではなく、全ての瞬間に、あなたが世界を創造している。

最近、量子論では観察者とは呼ばずに、関与者と呼ぶようにしたそうです。

観察するものとされるものが、お互いに関与しあって世界は創造される。

スピでも「あなたが世界を創造する」「あなたが変われば世界が変わる」とかよく言われるけど、

人の意識が世界の創造に関与していると、すでに科学で証明されていたんですね。

引き寄せがうまくいった!とか、マントラで願いが叶った!とかよく聞くけど、

量子論的に見れば、これは自分の意識が望む世界を創り出すことによって現れる現象だと言えます。

 

さらに量子論では、

万物は空間に同化した存在であり、「空間は万物を生成させる母体である」と言います。

これは、スピ系の世界でよく言われる「無はすべてである」と同じことですね。

例えば今、体の周りに空間が広がっているわけだけど、何もないところにもテレビやラジオやスマホやWifiの電波が飛び回っている。

外で犬が吠えればワンワンという音波動が、鳥が鳴けばチュンチュンという音波動が耳に届き、人の意識と絡まって世界を創造する。

目の前にあるのは全てが波動で、可視光線として目に見えるものだけが脳で認識されるけど、実は不可視なもののほうが圧倒的に多い。

空気は目に目えないけど、まわり中を満たしているし、そもそも光は光子という素粒子だからね。

何もない無の中では、素粒子たちが現れたり、消えたり、生滅を繰り返していると量子論は言います。

素粒子たちはこの世とあの世をつなぐ「神の使い」なんじゃないかと思う。

あの世とは「源泉」のこと。この世界が現れる根本の意識。

神、仏、ブラフマン、タオ、存在・・・いろんな呼び名で呼ばれる。

時間もなく、空間もなく、ゆえにこの3次元世界を超えた「源泉」からこの三次元世界が現れる橋渡し役となっているのが素粒子たちなんだよね。

対して、この世とは「幻」のこと。ヒンズーではマーヤといいますね。

この世には実体のあるものは何もなく、全てが生滅する波動であることはすでに証明されてる。

これは科学的な真実なんだから、もう文句を言ってもしょうがない。

今ここにあるものは、あの世の意識が素粒子を通して表現された世界。

神が素粒子を通して表現したこの世界で、我々はどういうわけか世界があるという経験をしてる。

とても不思議なことではあるけど、言えるのはこの世で何が起ころうとそれは一時的な現象であり、生まれては消えるを繰り返すということ。

この世が幻だということがわかれば、悩みはなくなると思うんだけど、

どうだろう?単純すぎる?

楽観的すぎるかな??

でも、どんな悩みにも実体がなく、生まれては消えるのは真実だからね。

求めている本当の、永遠の真実というのは、この世ではなくあの世の方にあると思う。

もうすでに量子論はあの世の解明に入っていて、この宇宙が何故生まれたのか?ということもそのうちに解明されるかもしれません。

現在の宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教などいろんなものに分かれて別々の主張をしてるけど、

科学的な真実はただ一つだけだから、量子論はこれらを一つにまとめるのではなかろうか?

遠くない将来には、宗教と科学を統一した「量子宗教」ができると思うよ。

神の心の発見

また井原先生から貸してもらった本の紹介です。

量子論から解き明かす神の心の発見(岸根卓郎)

この本を読んでまずビックリしたのが、「人間の心こそが宇宙の心である」と断言してること。

著者の岸根卓郎氏は京都大学の名誉教授で、数学、数理経済学、哲学など広い分野で有名な先生なんだそうです。

その先生が、「量子論は、見えない人間の心が、見える宇宙を創造していることを科学的に証明した」と断言しているのだから、こりゃインパクトありますねー。

これからの時代には、量子論的な世界観が重要になってくると思います。

量子論のコペンハーゲン解釈で「誰も見ていない月は存在しない 月は人が見たときはじめて存在する」というのがあるけど、これが当たり前の感覚になった時に人は進化するように感じます。

私たちは、単なる宇宙の観察者ではなく、宇宙の創造者であるということ。

あなたがいるからこの世界(宇宙)はあるのだということを量子論は示しているように見えます。

そして、著者は「電子が心を持っているから、人間も心を持っているのである」とはっきり言っている。

電子というのは素粒子のひとつで、原子レベルで見ると原子核の周りをぐるぐる回っているものと一般的には言われています。

その電子の動き方は不確定原理によって、位置と速度を同時に確定することができないので、ぐるぐる回っているというよりもなにかわからない雲のようなものとして原子核を覆っているイメージだそうです。

なので、電子というのは、なにか不確定的に動く雲のようなものという感じですね。

私たちの体も原子核や電子で出来ているわけなので、我々はそれらの運動がマクロに現れ出たものと言えます。

その電子が心を持っているとはどういうことなのか?

著者は、「心=干渉性」だと言います。

心というものは、何か実体のないエネルギーの動きであって、エネルギー同士の干渉によってこの世界に現れて知覚されるものである。

電子が心を持っていることの実験的根拠として

1.電子の粒子性と波動性の理論
2. 〃 状態の保存性の理論
3. 〃 波束の収縮性の理論
4. 〃 不確定性原理

という4つの理論がすでに実験によって示されているそうです。

また、著者ははっきりと言います。

「神の心の正体がこの世に姿を表したのが、外ならぬ電子の量子性である」

量子とは、物質の最小単位であって、粒子としても波としても不確定的に現れる性質のもの。

真空のエネルギー宇宙は、何もない空間ではなく量子レベルのエネルギーが生滅しながらゆらいでいて、それによって万物の素の素粒子が生まれたり消えたりしている。

これは、無はすべてであるということを言っていますね

形あるものは無から生まれ、また無に還る。色即是空。

また、著者は言います。

「量子論は生の世界のこの世があるかぎり死後の世界のあの世があることの「相補性原理」を科学的に立証した」

これからの心の時代には、この世とあの世の間に存在する
「量子エンタングルメント」(あの世とこの世の共存性)や
「量子テレポーテーション」(あの世とこの世の情報交換)
などの心の共鳴現象の理解が必要になる。

このあたりは、マントラや引寄せの法則に通じますね。

著者が言う「この世」とは現れ出た世界、「あの世」とはまだ現れ出ていない世界のことです。

死んであの世に行くとは、まだ現れていない世界に戻ること。

極めつけは、最後のほうに出てくる次の言葉です。

「生の目的は死である」

死を目的に喜んで死を受容し、よりよく生きることこそが生の目的であり、それを手助けするのが宗教である。

量子論を追求していくと、なぜか宗教にたどり着くんだよね。

スピ系オタクとしては、生きる勇気をもらえる本でした。

太母さん大師

あはは。笑っちゃったんだけど、勘違いしてた。

ずーっと、OSHOは59歳で肉体を離れたと思ってて、今年59歳になった自分はついにOSHOのこの世年齢を超えるのだ!

これは、この世的、あの世的、宇宙的かつ個人的に記念すべきことなのである!

なーんて思って、せっせとOSHO瞑想に励んでたんだけど、よく考えたら、

OSHOは1931年12月11日生まれの1990年1月19日没で、1990年にはまだ誕生日来てないわけだから1990-1931-1=58歳で亡くなってたんだよねー。

ちゅうことは、すでに1年前にOSHO年齢を超えてたってことなのよー(笑)

アホみたいだけど、しおらしくていいかもね。

何事もなかったかのようにOSHO年齢を超えられたのだから。

あとは、やりたいことやって、死ぬまで生きるさ。

Love you. OSHO

OSHOとは別の話だけど、

1990年頃、太母(たも)さんに会ったことがある。

太母さんは、OSHOが亡くなる少し前、彼の体調が悪かった頃に、OSHOにパワーを与えたいということでインドのOSHOコミューンを訪問しました。

そこで、太母さんはエンライトメントした(悟りを得た)人として紹介され、OSHOから花が降り注がれました。

って、当時サニヤシンの間で話題になったことがあった。

その太母さんが、熊本の天草を訪問するという機会があり、何人かで会いに行ったことがある。

天草で見た太母さんは、その時すでに80歳を超えてたと思うけど、ボクには「永遠の少女」のように見えた。

彼女が前を通るとき、ボクは胸の前で手を合わせてちょこんと挨拶をした。

太母さんもこっちを見たんだけど、その時、彼女からすごい気が出ていて、それに圧倒されてボクは動けなくなってしまった。

動けなくなったボクに近寄ってきて彼女が手をとると、目を閉じた視界がオレンジ色に照らされて、光がパチッパチッと鳴った。

という、たぶん数分間の経験がある。

その時に何かが受け渡されて、今でもずーっと残っている。

言葉ではない「それ」の受け渡しってやっぱりあるんだよね。

そのことをOSHOは「コミュニオン」という言葉で表現してました。

太母さんは「黎明」でも大師として紹介されています。

大師とは、この世で悟りを得た後に肉体を離れ、あの世からこの世の人々を導く波動の高い霊のこと。

OSHO、太母さん、キリスト、ブッダ、クリシュナ、、、他、名前も知られずに逝った悟りの霊たち。

キリスト教では、彼らのことを「聖霊」と呼ぶようです。

この聖なる霊たちは、いつも私たちのそばにいて

ドアをノックして、コミュニオンしてくるんだよねー。

ノックの音を聞き逃さないように・・・


菊池霊鷲 (太母さん)の世界⇒ http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-1.htm

天のオカリナ

掃除のおばちゃんが「クリスマス会でオカリナ吹いてよ」って言うので、「吹きまあす!」言うとったけど、

やっぱ人前で演奏するのにプラオカリナじゃマズイやろ思って、知る人ぞ知る西原村の天(そら)さんのオカリナ買いに行った。

西原村 揺ヶ池(お池さん)
揺ヶ池(お池さん)

途中、久しぶりにお池さんに寄って水もらっていこうとしたら、なんとお池さんの水は地震の影響か?枯れてなくなっていた。

お池さんの水なくなってた
お池さんの水 枯れてた(涙)

お池さんは霊水のスポットとして地元では有名なんだけど、まさか、霊水が枯れてしまうとは?! びっくりたまげた!
熊本地震おそるべし。。。

お池さんを通り過ぎてしばらく行くと、目的地のオカリナ工房、天(そら)さんです。

天(そら)


そらさんでは、オカリナ製作者の福山宏先生がいろいろな種類のオカリナを吹きながら、

福山宏先生

正しい吹き方を教えてくれたり、
しお用に音合わせをしてくれました。

しお&ふく 同い年(笑)

結局、ソプラノCとアルトCの2本を購入した。
2本で2万6千円。奮発したよー!!

ソプラノ(上) と アルト(下)

そらさんのオカリナは吹きやすくて高音がのびるわあ〜。
今まで使ってた安いオカリナだと高温がかすれるのね。
そらさんのは、キレイに出るんよ。こらよかあ〜。

そらさんのサイトで購入できます。)

そんでもって、そのオカナ持って熊本に戻り、
クリスマス会に行って、さあ吹くぞ!って
血圧上げてドキドキしてたんだけど、


時間の都合で2曲だけすることになって、あらら順番わけわからんようになって、

結局、「上を向いて歩こう」と「となりのトトロ」を間違い間違い吹いただけであった。

でも、子供とかおばさん、おじさんが手拍子してくれたり、晩ごはんやらケーキやらサンタのプレゼント貰ったりして・・・

振り返ればめっちゃ充実したいい一日であった。

今日会った人々みんなありがとう!

ということで・・・

これから天のオカリナを吹きまくるのであります。

オー、オショー!

空き家になっていた実家を人に貸すことになり整理している。

押し入れから、OSHOの本とかビデオとかいっぱい出てきた。

これ、どうしようかな?
今の家は狭いので置き場所ないし、
ヤフオクとかメルカリとか出しちゃおうかな~

なーんて考えたりするんだけど、

振り返れば、
24才のときにOSHO(バグワン)の本に出合ってから50代になるまで、ずーっとOSHO一筋、瞑想一直線だったんだけど、

7年前に体調崩して井原先生に出合ってから、OSHO以外にも実は悟った人っているんじゃね?って感じになって、

エックハルト・トール~非二元の人たち~ヌーソロジーの人たち~などの本を読んでますけど、

でも、やっぱり足元の基本はOSHOなんだよね。

非二元の前にOSHO、ヌーソロジーの前にOSHO

しおにとってOSHOはすべてを含んだ大きな存在。

死ぬまでそれは変わらないと思う。

OSHOのお墓の碑文には、


OSHO

決して生まれることもなく、決して死ぬこともない

1931年12月11日から1990年1月19日まで、惑星地球を訪れた



って記されているんだけど、これジョークだよね。

この宇宙は神の遊び場、宇宙の成り立ち自体がジョークなんだから、まぁそれでいいんだけど、

それにしても彼はさんざん人の人生に影響を与えておいて、じゃあバイバイ!って逝っちゃった。

そんな風に思ってるサニヤシン多いんじゃないかなぁ

しおの誕生日は12月10日、OSHOの誕生日と1日違いです。

肉体的にOSHOが死んだのは彼が59歳の時だったので、もうすぐ
59歳になるしおはOSHOのこの世年齢を超えることになります。

今度の12月11日、1月19日は祝祭でっせ。

誕生と死のセレブレーション!!

OSHO好きども!
OSHOと一緒に歌おうよ、踊ろうよ。瞑想しよう!

肉体から解放された現在、彼はあらゆるところにいるのだから

静寂に入ると、彼に会えるよ。


OSHOの瞑想&講話

この静寂とともに
あなたはある別の次元
あなたの内なる次元へ

それは内なる空への
広大な窓だ

あなたの翼を広げなさい
恐れることはなく

この道で自分自身以外の
誰かに会うことは
ありえないのだから

この静寂は
あまりにも恵みに満ちている

この静寂の中であなた方は皆ブッダだ

もしあなたがふたたび忘れてしまったら
それは別の話だ

これを覚えていなさい
覚えていなさい

これとあなたのライフワークが
何であるかは少しも関係がない

それは底流のように
24時間変わることなく
流れ続けることができる

内なる光だ そして
これはあなたの生全体を変える

その生き方を
生活パターンを
生への取り組み方を

これ以外に変容への道はない

これ以外に永遠に至る道はない

この瞬間

あなたは生を超え 死をも超える

あなたは肉体でもマインドでもなく
ただ純粋な覚醒だということを
より確かなものとするために

バン! (太鼓の音)

さぁリラックスして
体をあなたから遠く離れてしまった
死んだものとしてみなさい

そしてマインドもその体の一部
ひとつの機械作用だ

あなたはただ目撃する人だ
全く油断なくあること

そしてあなたは彼方なる
ものへと到達する

あなたは生と死を超え 二元性を超え
永遠なるもの不滅なるものを

あなたの広大無辺の全体性を感じるようになる
あなたはただの一部ではない

あなたは宇宙そのものだ
それがブッダであることの意味だ

これがあなたの無であり 
これがあなたの空なのだ  

全く純粋なスペース
この純粋なスペースから
あらゆる種類の創造性が沸き起こり

すべての歌がすべての喜びが
すべてのダンスが生まれるのだ

唯一この体験だけが
世界を取り巻く帯のようになった時

人類を自己自身から救うことが可能なのだ

バン!(太鼓の音)

もどってきなさい
静かに 優雅に 急ぐことなく

あなたが到達した意識と経験を保ちながら

なぜならすべての行為に
あなたの意識 あなたの慈悲
あなたの愛 あなたの瞑想が
映し出されるように

それを底流のように
24時間保たねばならないからだ

それはちょっとの間行なって
済ませるようなものではない

それはまさにあなたの呼吸
まさに心臓の鼓動そのものに
ならなくてはならないものだ

そのときにのみ未来の人間
新しい人間にとっての可能性がある

新しい人間(Newman)

彼らのマインドは破壊的ではなく
その大地は、国々は、分けられてはいないだろう

彼らは生を
詩人たちが常に夢に描いてきた生

そして僅かな神秘家たちだけが体験した
生のような

豊かで至福に満ち溢れ 穏やかで
愛に満ちたもののために
全エネルギーを注ぐことだろう

瞑想は入り口だ
瞑想はマインドをコントロールする
主人の目を覚ますための方法だ

その主人はマインドを従えることができ
真理や美 愛や喜びと言った
より価値あるもののために
マインドを使うことができる

お祝いしてもいいかな?

Yes. OSHO