井原先生の内観会

井原先生の内観会には、もう丸7年通ってます。

内観会の様子

最初は自分の心臓の調子が悪かったときに井原先生に出会って、井原流手当て治療で治してもらいました。

3年前には、私の嫁さんが悪性リンパ腫(4A期)というガンになり、やはりここに通ってガンを治したということもありました。

もちろん、病院での抗がん剤治療と併用してですけどね。

昨年1月に膵臓ガンが発見された私の先輩教師の山崎先生もここに来ています。

山崎先生 ニコニコ元気でーす

山崎先生のガンは(4B期)にあたり、手術で患部を開いたとき、他にも転移していてどうにもならずそのまま閉じたんだそうです。

本人もこれは余命3ヶ月だろうと覚悟したそうですが、その時のショックと葛藤はすごかったでしょうね。

縁があって、山崎先生も井原先生の手当て治療を受けることになります。

それから1年半がたって、現在もニコニコ元気で過ごされてます。

ほんとにガンになって良かったーって思うんだそうです。

ガンにならなかったら、何も知らずに死んでただろう、って。

来月には、地域医療センターで自分の体験を他の患者さんにお話しされるそうです。

ガンも自分の一部だからよちよちって可愛がるのがコツみたい。

すごいねー。ほんとにすごいなーと思います。

井原先生 86歳

井原先生のお話は、

「我々は喜ぶためにこの世に現れてきている」
「いつも聖霊たちが手助けをしてくれている」
「ほんとうは病気が治ってからどう生きるかが大事」
「死ぬときに喜んで死ねるか、死んでからどこに行くかが勝負」

という感じで、基本的に・・・

目に見えない世界の聖霊たちとこの世で肉体を持つ我々が波動のやり取りをしながらこの世界は成り立っていて、聖霊たちの手助けで病気も治ったりしている。

だからいつもニコニコして、喜んで聖霊たちを引き寄せればいいのだよ。

要するに目に見えない世界が本質で、目に見えるこの世界は一時的な現象ということ。

この世のことを現象界っていうもんね。ほんと言葉通りです。

なので、死というものは、現象界からの卒業であり、

卒業した後に本質的な生が待っているってことですね。

これが腑に落ちるとほんと楽になりますからねぇー(^。^)

井原先生は、死んだ後に自分がどこに行くかがわかるそうです。

いつも「死ぬのが楽しみだー!」って、言われてます。

もう千回くらい聞いたかもね(笑)

ワシャなーんもせんとばってん、
上から神様が下りてきて治すとたい

ここで、皆があおむけになって先生の手当てを受けるときに、私はいつも座禅の形をとって瞑想に入るのだけど、なぜか10分くらいで眠くなってしまい横になって寝てしまいます。

普段は30分くらい座禅してもまったく眠くならないのにね。

どうも、ここにはそういうリラックスを誘う波動みたいなものがあって、それが目に見えない聖霊たちの癒しの波なのかもしれません。

目が覚めた後は、すーっと生き返るんだよねー。

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【井原先生の内観会】

●日時:毎月 第1、第3、第4土曜日 13時30分~

●場所:熊本市 中央区井川淵町4-1 碩台公民館2F
    (藤崎宮隣りです)

●参加費:無料だけど皆さん寄付金を封筒に入れて渡されてます
    (多分1000円程度)

ガン、脳梗塞、心臓病、パーキンソン病、金欠病、不安病、

幸せな人、不幸せな人・・・そんな人たちが集まる

まぁ、何というか、不思議な波動の場所です。

参加希望の方は、ご連絡ください。

聖書の言葉

うちの職場の会議では、開始前にチャプレンが聖書の言葉を述べることになってます。

今日チャプレンは、あの有名なイエス・キリストの「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」という言葉について話されたんだけど、

よーく聞いても意味が分かんなかった(笑)ので、いろいろネットで調べてみたら

一般的には、左頬を出すことによって「相手を許し、愛情を示すこと」と解釈されているみたいです。

また、アメリカのハーバード大学では、以下のようなユニークな解釈の講義をやってたんだそうです。


・普通に右利きの人が正対した相手を殴ると相手の左頬に当たるので、右頬を殴るためには、手の甲で裏拳打ちすることになる。

・昔は、卑しい身分の奴隷を殴る時、きれいな手のひらで殴ると手が汚れると考えられていたので裏拳で殴っていた。

・そこで、右頬を裏拳で打たれた後に、左頬を差し出せば手のひらで打たざるを得なくなる。

・手のひらで奴隷を打つと「主人と奴隷」は「対等の関係」になって、主人にとっては屈辱的なことになってしまう。

・イエスは暴力を用いることなく、主人と奴隷の関係という立場を変えてしまう「平和的な闘い方」の精神を教えていた。

トカナのサイトより


これ面白いけどホントかなぁ~。ひねりすぎじゃ?って感じしない?

しおの解釈は、ちょっと違っていて・・・

バーンって片頬を叩いた後にもう片方を差し出されたら、

「ん、なんだ?」って、一瞬はっとして、時間が止まるよね。

その一瞬に、自分がやったこと(人を殴ったこと、愛のなさ)に気づいてもらうためなんじゃないかな?て解釈しました。

イエスが十字架に架けられるとき「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書)

と言ったように、悟りを得た人が悟後に何をするかというと、もう自分の問題はなくなったので、あとは他者に気づきを与えることしか残らないんだよね。

イエスも仏陀もOSHOもエックハルト・トールも菜穂ちゃんもじゅんころさんも,いわゆる悟っちゃった人がやってることは、あとから来る我々に気づきを与えること。

じゃないかと思うんだよね!

んー、でもねー。黎明によれば・・・

聖書経典に出てくる言葉は、普遍意識に到達した人が言葉にできないものを例え話として語っているのであって、ホントのところは言葉にした時点で普遍意識とは違ったものになっている。

その例え話を、自我マインドを使って解釈してもどうにもならないし、言葉だけを追いかけても、元の真実から離れていくだけだと思うんだよねー

だから、先ほどのしおの解釈も含めて、覚者の言葉を解釈すること自体がナンセンスなのかもしれない。

よく言われるけど、、、

覚者の言葉は「真実を指し示す指」であり、指のほうに気をとられてあれこれやっても真実には辿り着かないってことですね。

こんな解釈劣化は、キリスト教、仏教、イスラム教、その他宗教で起こってきたことで、同じ宗教の中にいくつもの宗派があることがそれを証明している。

一人のブッダが語った事が、いくつもの解釈をされて、いくつもの宗派に分かれる。

そして、分かれた宗派同士で争うパターンってよくありますね。

キリスト教も仏教も、元は一つだったのにね。

じゃあ、どうしたらいいの?ってことになるけど、

・・・うーん、わからん(笑)・・・っていうか、

要は頭で解釈しなければいいんじゃないかな。

その言葉の背景にあるものを直接感じてみる。

言葉の源にある普遍意識のほうに目を向けてみる。

その普遍意識と一体化したときには

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」

と言った時のイエスにあなたはなっている

ってことじゃないかなぁ~

だから、覚者の言葉に触れるときには、

その言葉の意味にこだわるよりも、

その言葉が自分の波動と共鳴するのか?

が重要なんだと思う。

共鳴が起こった時には、黎明で言うところの

普遍意識が降りてきて、言葉の意味が明らかになる。

そんな感じだと思うんだよねー。

物質と意識

井原先生から貸してもらった本を読んでの感想です。

「まじめなとんでもない世界」
著者:奥健夫さん(物理学者)

量子とは物理量の最小単位のことで、1900年にドイツの物理学者プランクが光の量子を発見してから、量子論が始まったんだそうです。

時間と距離にも、これ以上は小さくならないという最小単位があって、

・時間の量子は、10の-44乗秒
・長さの量子は、10の-35乗メートル

それより小さいものは分からない。

いわゆる量子ぼやけの状態になっていて、人間の意識による観察で量子の収縮がおこり、そこに物があらわれる。

人の観察によって、ぼんやりとした可能性から一つが選ばれ、観察者の意識の中に物質として現れる。

ということは、人の意識がなければ、量子はぼやけたままで、物として現れてこない。

量子論的には、そいうこということらしいけど、

しお的(スピリテュアル的?)には、

宇宙があっても、認識する人がいなければ宇宙は存在しない。

「あなたがいてはじめて、宇宙は存在する」
「あなたが宇宙を創造している」

って思っていたので、別に驚きはしないよね。

*

それから面白かったのは非局在性ということ。

非局在とは、どこにでも存在可能ということで、この世界は非局在性や全体性をもつことが量子論でもわかってきたんだそうです。

つまり「宇宙が全体的につながりあっている」ということ。

これも、スピリチュアルの世界では、非二元、ワンネス、分離はないとか普通に言うので別に驚かないよね。

もしかしたら、スピリチュアル的な認識にやっと科学が追い付いてきてるのかな?って思ったりします。

そして、「一つの場所で自由に選んだ情報が遠く離れた別の場所の情報を決定する」ということもわかってきているそうです。

例えば、晴れた日に空を見上げると青空が広がっていて、その青空のずーっと先は宇宙の端なわけだけと、

今この場所と宇宙の端は、どんなに遠く離れていてもつながっている。

どこでも「今ここ」状態。距離は関係ない。

そこで、大空に向かって「腹減った~!」って想いを発すれば、その波動は宇宙の果てまで響いて、どこかでそれに対する反応が現れる。

もう嫁さんが今日の晩飯はカレーライス作る気になってるかも?

これは、仏教などでよく言われるカルマ(業)と同じことだと思った。

この世で悪いことを行えば、いつか悪いことが返ってくるし、
善いことを行えば、いつか善いことが返ってくる。

行なった行為に対して、必ず発生する反作用。
行く波と戻ってくる波。

やっぱ、カルマってあるんだねー、量子論で説かれてるしー。

先日、大分の78歳のボランティアおじさん(尾畠春夫さん)が山口で行方不明になってた男の子を山に入って救い出したっていうニュースがあったけど、

尾畠さんってすごい。波動の強い人なんだろうね!!

男の子を救い出したいって想いの波動が宇宙を巡って現象化したんだと思うよ。

善いことを行なって、カルマも浄化しまくりだしね。

久しぶりにマスコミからいい波動のニュースが流れたって感じです。

*

話を戻して、要するにこの本での宇宙観は

意識のような存在が、宇宙全体にいきわたっていて

3次元空間の「今」は、ぼんやりとしていて、
今のこの瞬間に、意識によって可能性が実現化していく。

という感じです。

つまり、意識によって物質が現れるということ。

極論すれば、すべてが意識だからね。

般若心経の色即是空の「空」は「意識」のこと。

意識が形として現れたものが物質なのだから。

そして、あくまで意識が先で、物質は後。

見えないものが本質で、見えるものは一時的な現象。

生まれる前は、みんな見えないものだったんだからね。

量子論とスピリチュアルな世界観ってすごく似ている。

そう思った!

黎明!黎明!

ヌーソロジーの福岡研究会に参加したときに、参加者の斉藤さんがすごい本がある って紹介されていたので、早速図書館で借りてきた。

黎明(上巻、下巻) 著者:葦原瑞穂 amazon

初版は1998年12月で、2001年に上下巻に分かれ、2017年に新版として出版されてい るようです。

構想に2年、執筆に11年4ヶ月かけたということで、

物質、意識、人間、創造の 原理、誕生と死、生れ変り、潜在意識、カルマ、アストラル界、メンタル界、チャネリング、善と悪、光と影、占星学、宗教、アセンション、etc・・・

スピリチュアルな世界に興味がある人なら誰もが知りたい事を広範に、 真正面から科学的な視点で解説されています。

著者の葦原瑞穂さんっていったい何者?って思ってしまいますが、残念ながら2016 年10月2日に交通事故の為、現象界から旅立たれたそうです。

書かれている世界観は、私の師匠である井原先生がいつも言われていることほぼ同 じで、物質と意識のとらえ方はヌーソロジーと同じように感じます。

この本に出会うためにこれまで探求してきたんじゃないか?と思うくらい、これか らの探求の手引書としてぴったりです!

葦原さんは、大いなるもの(神、存在、全体、これ)を表す言葉として「普遍意識」という言葉を使われています。

生きる目的とは、普遍意識と一体化すること

そして、その波動を宇宙に還元して全体を進化させること

その方法について、様々な角度から詳細に解説されているので、こりゃやるっきゃないでしょ!

ただ、ここに書かれていることはあくまで葦原さんから見た世界なので、鵜呑みにせず自分の体験として探求していかないとね。

OSHO~瞑想~井原先生~非二元~般若心経~ヌーソロジー~

まぁ、気が付いてみればいろいろやってますが(笑)

これからしばらくは、黎明!黎明!ってなりそうです。

ワクワク。

ヌースな人々

7月14日、福岡ヌーソロジー研究会に初参加してきた。

会場は、福岡市中央市民センター(実習室)となっていて、

実習室てどんなんやねん?何か実験でもするんかな?とか思いながら歩いていたの で、いつものように道を間違えたりして、すこし遅刻してしまった。

会場には10人のヌーシスト?たち(男4名、女6名)が集まっていた。

女性のほうが多いのがちょっと意外に思えたけど、たまたましおの隣に座ってた女 性がなんと半田広宣さんのお姉様だということがわかり、

ひえぇー!まじかよー!こら一緒に写真撮らなあかん!思ってお願いしたけど

お姉さま恥ずかしがり屋さんのようで、残念ながら写真ナシですが、しおにテキストを見せてくれたりして、優しい素敵な方でした。

本題の研究会での会話は、もう20年研究してるとか、実数と虚数 がアレしたとか、元素記号がコレしたとか、まったくの???状態であった(笑)

なにせテキストが半田広宣さんの新刊「シュタイナー思想とヌーソロジー」という とんでもないものなので、しおの手におえるものではないのはわかっていた。

皆さん全員、この本を購入して各自で日々研究されてるようです

シュタイナー思想とヌーソロジー(8,640円)

まぁ、こちらとしては???なのは予想はしてたので、ちらっとでも知ってること が出てきたら質問とかしてみたが、主催者の安永さんが易しく説明してくれたので 助かりました(*^_^*)。

例のメビウス空間のしおなりの解釈も話してみたけど、まったく間違ってるとか言 われなかったのでこのまま突っ走ろうと思う。

というわけで、今回ヌーソロジーの会合に初参加してみたわけだけど、皆さんが結局やりたいことは、

この宇宙の仕組みを知りたい!ってことだと思う。

その意味では、しおと同志って感じかなぁ~。

先輩方、今後ともどうぞよろしくお願いします!

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宇宙の仕組みを知るための道、方法はいろいろあるよね。

非二元や瞑想もそれを知るためのダイレクトな手法だと思う。

ただ、非二元や瞑想はそれを知ったとしても説明ができないんだよね。

思考を外して知るわけだから、知ったとしても説明のしようがない。

だから、これとかそれとかって表現になっちゃう。

ヌーソロジーは量子論やイデア(形)を使ってそれを説明しようとする。

例えばヌーソロジーでは、モノの根本である素粒子の消えたり現れたりする振る舞いを意識だと言っている。

これは、般若心経の「色即是空」を量子論という学問を使って解明しようと挑戦しているように思えます。

色(モノ)は、空(意識)である、ということが言えるところまで量子論は来てる のかもしれません。

ということは、我々の意識が変わることによって、モノの現れ方が変わるというこ とです。

つまり、意識が主体的に現象を創起する、ってこと。

だから、素粒子たちは観察されてるときにははっきりしていて、観察されてないときにはぼんやりしてるんじゃね?と思う。

 

あなたは意識であり、主体である。

あなたの体は、意識がこの世界に現れた客体である。

と思いませんか?

 

なんかねー。

今まで探求してきたこととヌーソロジーが

どんどん近づいてくるんだよね。

4次元意識

ヌーソロジーの探究を始めてしばらく経ちますが、現在、4次元対称性のカタチであるメビウス空間を日々の生活現場で探究してるところです。

今日は、メビウス空間における「人間の内面」と「人間の外面」について、現在の理解を書いてみます。

メビウス空間では、オモテ3次元の人間の内面(左側球)とウラ3次元の人間の外面(右側球)が重なり合っています。

通常の人間意識は人間の内面を外側の世界だと考えていて、人間の外面の存在は無視されているとオコツトは言います。

ヌーソロジーでは、人間の外面を見つけ出すことが4次元意識への移行であり、いわゆる悟りの境地への到達です。

私はこれまで内と外をはき違えていて、最初のころは梵宇宙(外側の宇宙)と我宇宙(内側の宇宙)を逆に書いていました。

メビウス球を理解することによって、内と外を逆転させることが今の探究テーマです。

まず、左側のオモテ3次元球が何を表しているのか?

しおの解釈では「自我の世界」となります。

私という自己がいて、私を中心に外側に世界が広がっている。

通常の人間の認識は、こうなりますね。

だけれども、果たして「私」という自己は本当にいるのか?

しおのこれまでの探究結果では、私というものは見つからない。

私とは、マインドが作り出した想像上の自己であるという結論です。なので、

私の外側の世界も想像上の私が作り出した想像上の世界です。

社会、町、市、県、国、海外、これらが私の周りに広がっている

と感じでいると思いますが、これらは実在するものではなく

マインドを通して想像している世界なのです。

オコツトは、これを人間の内面と呼びます。

対して、右側のウラ3次元球が何を表しているのか?

というと、目の前にある「あるがままの世界」となります。

こちらは「私」が見ている世界ではなく、へたな表現をすれば

意識がこの世界の境界から内側を観察しているって感じです。

宇宙からの視点、神の視点とも言えるかもしれません。

自我マインドを通さないあるがまま、悟りの世界です。

オコツトは、こちらを人間の外面と呼び、現在の人間には、まだ発現していないといいます。

これまで、見るということを、「外側にある光を目から取り入れ脳で内側に映像を創り出す」というような表現をしていましたが、これは人間の内面的な表現です。

人間の外面における見るということは、「別次元にある意識が、意識の物理的現れである目や脳を通して世界を創りだしている」という感じに思えます。

つまり、人間の外面において、今も意識が世界を創っている!

あくまで人間の外面が主体であり、人間の内面はマインドを通して創られた客体であるということです。

人間の外面こそが、本当の自分であり、創造の主体なのです。

そして大切なことは、主体である人間の外面と、客体である人間の内面は、本来同じもの、主客一致の関係であるということ。

メビウスの帯のように反転したもの同士がつながっている。

外側(梵)と、内側(我)は、同じものであるということ。

ここでもやっぱり梵我一如の世界なんですね。

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ヌーソロジーは「次元」という感覚をもたらしてくれます。

次元が上がるごとに、認識が変わり世界が変わる。

般若心経や非二元で言っている「無」というやつは、

この3次元世界ではなく別次元のものだと気づきが来ました。

4次元→5次元の探究もワクワクです。

ヌースの基本は遊びだからね。

半田広宣さん、川瀬統心さんに感謝です。

数学の公式みたいなんが出てきたら、あへ~ってなるけどね。

プラシーボ効果

引き続き、体の調子が悪い。

いや、体と心は1つのものだから、
心の調子が悪いのかもしれない。

今朝も目覚めたときから

「うわぁ、どうも何か具合が悪い」
「後頭部らへん、熱くなってないか?」
「左足がしびれてないかなぁ、そんな気がする」
「ドーン、と脳梗塞やってくるんじゃ?」

とか考えたり、

「いやぁ、死なんてないからねぇ」
「もう生き死には全部、神様に任せてるよ」
「今、起きてること全部受け入れればいいのよ」
「この瞬間はこうでしかありえないからねぇ」

などど、

否定的な思考が浮かんでは、
それを打ち消す肯定的な思考を浮かべる。

そんな作業を、あきれるくらい延々とやり続けてる。

これ、葛藤ってやつですかね?

マインドは葛藤を生み出して、その葛藤が体に影響を与える。

それで、今の体調の悪さがやってきてると思う。

 

7年前にも、今と同様に体調が悪い時期があった。

その時は井原先生と出会い、先生の手当で治してもらった。

もう7年も先生のところで修行しているので、

今回は、自分で治してみようと思う。

井原先生

 

ところで、プラシーボ効果っていうのがありますね。

プラシーボ効果とは、偽薬を処方しても、
薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられること。

これは、実は良いことなんじゃね?って思ったりします。

偽薬で病気が治るということは、薬じゃなくて

実は、自分が病気を治しているということですよね。

信じる者は救われるという言葉があるように

この薬で本当に治ると信じれば、本当に治る。

これは、よくスピで言われる「思えばそうなる」とか

「世界は自分が創造している」の証明ではないでしょうか。

だから、プラシーボ効果って肯定的な好ましい現象だと思う。

 

井原先生の手当で心臓が治ったっていうのも、

かなり、プラシーボ効果的なところがあったのでは?

と、今は思ってます。

 

井原先生はすごい人だ!と思えば思うほど

先生の言われることを素直に聞けば聞くほど

治ると信じれば信じるほど、効果は高くなる。

 

それでオッケー! 何も悪いことはないよね

信じて乗っかれば、病気が治っちゃうんだから。

 

井原先生に限らず、気功やヨガや宗教の教師たちが、

病気を治したという話は、よく聞いたりするけど

その教師たちは、あくまできっかけであって、

結局、自分の思いが、自分の体を治している。

 

信じる、思う、想像する・・・すべてマインド

 

この世界は、ほんとにマインドの世界なんだな。

マインドによって一日中、何らかの判断をして、

良ければ浮かれ、悪ければ落ち込み、体調が変わる。

カラダというのも、マインドが物質化したものだからね。

 

プラシーボ効果っていうのは、

マインドの世界で現れる面白い現象だと思うけど

マインドである限り、究極ではないよね。

 

やっぱり、二極を往ったり来たりする

ぐるぐる輪廻からは出られない。

 

えっと今、気づいたけど

そういう、マインドストーリーから、

ちょっと抜け出てみることを、最近忘れてた!

だから、体調悪かったんだね。

死後の今

なぜか最近、体の調子が悪い。

昨日は仕事中に頭がポーっとなって保健室で寝ていた。

血圧測ってもらったら、170になっていた。

なぜだろう?

嫁とケンカしたから?

西城ヒデキが死んだから?

霊的な何かがとりついてる?

わからない。

でもやることは決まっている。

体の調子が悪い自分を見ること。

心臓の鼓動、血流の流れ、手足の感覚、

入る息、出る息。ちゃんと見れる。

このまま、逝ってもいいかな?って思ったりする。

見ている者が本当の自分なんだから、

体が死んでも何も変わらない気がする。

 

井原先生がいつも言うんだけど・・・

「死んだあと何処に行くかが勝負なんやー!」って。

 

先生みたいに死んだ先のことはわからないけど、

言えるのは、死んだ後も「今」があるだけってこと。

死んだ後なんてないからね。

死んだ後も今になってるわけだから。

 

ちょっと、死んだ後のことを今、考えてみる。

死ぬと間違いなく、肉体はなくなるわけだけど

肉体の死後、我々の個性はどうなるのだろう?

消えてしまうのだろうか?

それとも、残るのだろうか?

答えは死んでみないとわからないけど

人は7つの波動体の集合であるという観点からは、

肉体は死んでも個性は残るってことになるね。

アストラル体レベル以上のあなたの個性は、

ユニークな波動として振動し続ける。

だから、あなたは死にたくても死ねない(笑)

そのことは、最近はほぼ間違いない気がしてる。

その個性も全体の表現だから、

結局は全体しかないわけだけどね。

 

半田広宣さんが、

「寝てる時に見る夢とは何ですか?」って質問に

「死の予習のようなもの」と言ってたんだけど

確かにそうかもしれない。

夢の中では、肉体の感覚はほぼなくて、

自由にいろんなところに行けるからね。

子供のころ、よく平泳ぎみたいな恰好で

空を飛ぶ夢を見たけど、楽しかったなぁ~

もしかしたら、夢見中にはアストラルが

体から離れて全宇宙を旅しているのかも。

死んだ後も、そんな感じじゃないかなぁ~

今度また体の調子が悪くなったら、

そのあたりもっと探究したいと思う。

 

地球は回る

キリスト教系の学校に勤め始めて1年になります。

毎日、1時間目と2時間目の間に礼拝の時間があって、聖書を読んだり、賛美歌を歌ったりするんだけど、これが結構楽しかったりする。

聖書で何を語っているか?とかほとんど興味ないんだけど、

誰にも邪魔されない瞑想の時間としてちょうどいいからね。

会議やイベント時にも、開始前にチャプレンがやってきてお言葉を述べてアーメンってやってから始めるので、ケンカにはならないんだよね(笑)

アーメンとは、同意するって意味なんだそうです。

そんなうちの学校の一番いいところは、キリスト教に入信してクリスチャンになりなさいとかまったく言わないこと。

礼拝も強制ではないし、入信も自由なんだよねー。

おかげで、スピ系オタクとしては特定の宗教に偏らずに探求できるので良い感じです。

うちの礼拝でチャプレンが必ず言う言葉が

「それでは皆さん、今日も神様からの祝福を受けましょう!」

そのあと、オルガンが鳴ってアーメンを3回唱えるので、これは、祝福を受けることに同意してることになります。

まず最初に祝福ありきなんよね。ここが仏教と違うところ。

仏教は「人生は苦である」から始まりますからねー

基本の話だけど・・・

我々は皆、この3次元世界にいて、

それぞれが日々の暮らしをしているわけだけど

毎日、必ず朝が来て太陽が昇り、外に出かけて活動し、
夕方には太陽は沈みだし、暗くなれば眠くなって寝る。

人生ってたったこれだけなんだよね。
これを3万回ほどくり返すだけ(笑)

だけど、この事実をよく見てみると、とんでもないことに
朝が来たり夜になったりするのは、地球が回っているから。

地球の重さは、約6000000000兆トンだそうだけど
そのとんでもなく重いものが、24時間ちょうどで、
1秒の狂いもなく1日に1回転する。

だから、朝が来て夜が来る。

今までどれだけ回数、地球は回ってきたんだろう?
これからどれだけ回数、回るつもりなんだろう?

地球にいる我々も、地球と一緒に回っているわけで、
その意味では、我々も地球と同体、地球が私、私が地球。

もし地球が回らなかったら、朝もない夜もない人生もない。

毎日毎日、休まずにその地球を回してるのは誰だろう?

うーん、神様というしかないよね。
ほかに答えがあったら誰か教えてー。

我々は常に神という大いなる力の中にいるということ。
すでに最初から神の祝福の中にいるということ。

キリスト教徒だろうが、仏教徒だろうが、

非二元だろうが、ヌーソロジーだろうが

アホだろうが、カシコだろうが関係なしに

地球は回り続け、朝は来て日はまた昇る。

はっきり言っちゃえば、人生なんてないから(笑)

人生とは単なる記憶、
過去の記憶が今、湧いているだけ。

我々が人生だと思っているものは、
地球を覆う雲みたいなもの。

どんなに深刻ぶっても、湧いては消えていく。

だけど、今、地球が回っているのはリアルな現実。
これはホントのお話だから。

ホントの話のほうに目を向けよう!

あなたが、死のうが生きようが、地球は回る。

神の祝福は、いつもリアルな現実の中にある。

なぜなら、生のリアルな現実こそが神だから。

・・・それが、本当のあなたなのだから。

よく見ると、全部がリアル! 全部が祝福!

Love.

情報処理試験

4月15日(日)に情報セキュリティマネジメント試験を受けてきた。熊本の試験会場は、熊本大学だった。

情報セキュリティに関しては、このネット時代、常に外部から企業情報や個人情報が狙われてる状況などあり、ホワイトハッカーが足りねぇ~ということで、人気資格になっているようである。

熊本会場では130人ほどが受けていたが、ざっと見渡したところやっぱ私がいちばん高齢じじいだったように思われる。おほんおほん。

試験の出題形式は、以下の通り

午前の部:小問題50問を1時間30分で解く
午後の部:長文問題3問を1時間30分で解く

午前の部はまだいいのだが、午後の長文問題は1問10ページくらいをあっち読んだりこっち読んだりしながら解かねばならないので、年寄りにはかなり厳しい。

私の場合、5ページ目を読んでるころには1ページ目のことは忘れているので、また読み直したりしてると、

時間が足りなくなって、最後のほうはあわててマークシートをパパパッてマークして終わってしまった。

スピリチュアル的に今回の試験を振り返ると、

解きながら気づいたんだけど、問題を解きながら「問題を解いている自分」に気づいてしまうんだよねー。

問題を解いている自分に気づいてしまうと、しばらく無思考の状態になって他の人より余分に時間がかかってしまうのよー。

これたぶん瞑想やってるせいだと思う(笑)

無思考の状態っていうのは、すごくいいんだけど、試験中になってもちょっと困るんよね。

今回、わかったことは、

試験問題は、問題文に深く入り込んで集中しないと解けないんだけど、

入りこんでいる自分に気づいてしまうと、集中から抜け出てしまうので、

問題解くのに向かないモードに入ってしまうのです。

子供のころに、マンガ本を夢中になって読んでて、

ふとマンガ本を読んでる自分に気づくと、

マンガの世界から離れてしまった。

ってことがよくあったのを思い出すなぁ~

OSHOは瞑想は集中ではないと言っていました。

瞑想とはすべてに気づいていること。

気づきの炎になることであると。。。

だけどねー。それじゃあ、試験合格できないから(笑)

集中している自分に気づきながらも集中している。みたいな

そんな技あったらだれか教えてくださーい!

単に、気づきが足りないだけかもしれんけどね。

そんなんこんなんでいろいろありましたが、

やっぱ最後は神頼みやろ!ということで

熊大で一番大きなご神木のもとへ行き、

はれー♪はれー♪合格はーれー♪ほーい!ほーい!と

歌ともマントラともつかない音波動を残して

帰路に就いたのであった。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、クローズアップ、自然

 


追記.

神頼みが効いたのか、後日合格証が送られてきました。

午後の試験は、たぶんギリギリだったと思うけど・・・

もう一つ受けたい試験があるので、引き続き瞑想的に勉強したいと思います(笑)

 

 

しおちかの瞑想ブログ